日本語の散文詩を色々読んできたが、その中で最も優れたものは西脇順三郎の『天気』だろう。

(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとさゝやく
それは神の生誕の日。

この詩が一番であるということは直感で分かる。問題はなぜそうなるのかという理由である。

おそらく、この詩のポイントは最初の「の」にある。「覆された宝石」という優れたフレーズはそれ自体が一つの詩のようであり、独立性を帯びているのだが、西脇順三郎は天才的なひらめきによって、そこを括弧でくくることにした。それによって形式的にも意味的にも「覆された宝石」はしっかりと区切りをつけられた訳だが、そのような切断が、助詞の「の」によって無理やりに接合されて一つの文へと成立させられているという所に、この詩の本当の面白さがあると思われるのである。

それは喩えるなら、刀によって切断された人間の首が、次の瞬間に切断面へとまた落ちて、ピタリとくっついて元に戻ったかのような奇跡的瞬間である。日本語の「の」は、死を取り消して復活させるだけの、特別な力を有しているのである。僕には「神の生誕」とはまさにそのことを指しているように思われる。西脇順三郎は日本語のあらゆる言葉の中で「の」こそが最も面白い言葉であることを喝破し、その魅力を最大限に引き出す詩を作ったのだ。