本稿では映画エヴァンゲリオン新劇場版のストーリーを読み解く。この記事はすでに四部作をすべて観た人を対象にしている。

巨大ロボットに乗り込むこと

エヴァンゲリオンのストーリーを把握するうえでもっとも重要な点は、巨大ロボットに乗り込むことは父性と母性の両方を象徴する行為だ、ということだ。鬼の面相をしたエヴァンゲリオンは兵器であり、戦うために作られた強力な武器である。そういう意味ではエヴァは父性の象徴だが、内部に乗り込んだパイロットは守られているとも考えられるし、コクピットという容器に入り込むことは子宮に含まれることと近似しており、母性を表しているとも受け取れる。

エヴァンゲリオンはこのことに対して非常に自覚的な作品である。エヴァンゲリオンを所持するネルフという組織は主人公の父親が頂点に立った組織であり、主人公はまず序盤で父親から「エヴァに乗れ」と命令される。シンジがゲンドウから見下される構図はあまりにも有名なものだ。その後も主人公は父親とくりかえし相対する。そのように父親というものがエヴァにくっついて存在しているのだ。一方コクピットの内部にはLCLという液体が満たされており、これは明らかに羊水のメタファーで、コクピットが子宮に近似されている。またエヴァの背中に繋がった電力ケーブルも名前はアンビリカル・ケーブルであり、その意味は「へその緒」だ。そういう意味では母性というものが常にエヴァにつきまとっているのである。

エヴァンゲリオンとは主人公シンジの成長物語である。彼は母親や父親から不完全な愛情しか与えられなかったために、彼らとの関係性から自由になれず苦しんでいる。そこからいかに脱却して自由になるかという事が語られるのが映画の本筋だ。

父性と母性がエヴァンゲリオンに宿っていることが分かっていると、4作目のキャッチコピーが「さようなら全てのエヴァンゲリオン」であること、実際にシンジがエヴァンゲリオンを消し去る決断を下すことも理解できる。それはシンジが父母と別れを交わすこととイコールなのである。

このような理解に立つと、父であるゲンドウが補完計画を完遂するのが可能性としてのバッドエンドであることも自然と了解できるであろう。人類補完計画が達成されれば、ゲンドウの言う通りシンジは父や母といつまでも一緒にいることができる。それは一種の楽園ではあるのだが、個人の成長という意味では邪道であり、間違ったことなのだ。それは死のない、言い換えれば代替わりの行われない、人類の進化が停滞した世界である。シンジはそのような世界を否定するために父親と戦い勝利し、父母との関係性を解消する。

母性の発展

ただし最後の敵である父親との戦いは、血みどろの決闘ではなく対話によって行われる。それがエヴァンゲリオンという映画の独特な持ち味だ。

実は父親のゲンドウもまたシンジと同様に他者との関係を築くことが苦手な人物であり、妻のユイだけが唯一心を許せる人物だった。ゲンドウのユイに見せる全面的な信頼と依存は、殆ど母親に向けるべきそれである。シンジはそのようなゲンドウの心の傷と生きにくさに理解を示し、人類補完計画をやめるよう諭す。するとこれまで頑固一徹だったゲンドウは心を開き、息子と和解するのである。これは何を意味しているのか。

実はこれは、シンジが成長して母性を獲得し、半分ユイの代わりを務めたので、ゲンドウが説得されたと受け取れるのである。

エヴァンゲリオンという作品は、父性と母性の両者を欠いた少年が、それに憧れて力を身につけるべくエヴァというロボットに乗り込むのだが、物語を通して成長し、その両方を身に付ける、という筋書きになっている。エヴァに備わっていた父性と母性を自らの物とした少年はもはやエヴァを必要としないので、それとの別れを告げる。このことの象徴がシン・エヴァンゲリオンの最後のシーンである。エヴァンゲリオンはじつは鉄道から産まれたものなのだが、シンジとマリは駅のホームから駆け出し、駅から、すなわち鉄道から離れていく。これは父母から離れていくことと等しい。

作中にはゲンドウとアスカという、母性に飢えた代表的な人物が二人登場する。彼らとシンジとの関係性に注目すると、物語の読解は容易になる。

二つの道

ストーリーの詳細な読解に入る前に把握しておきたいのだが、物語の普遍的な構造の一つに、二つの道というものがある。楽な道と困難な道の二つが主人公の前に示されており、主人公はどちらを選ぶか逡巡するというものだ。

それは通常、どちらが楽でどちらが困難なのか、そしてどちらが正しくてどちらが間違っているのかがはっきりしている。無論楽な道の方が誤りであり、困難な道の方が正しいのである。しかしそれにも関わらず主人公は迷い、楽な道を選択してしまう。

その結果何が起きるか。物語の前半は主人公にとって肯定的に、楽観的に進行する。しかしそれはあくまでも見せかけの勝利に過ぎない。

通常、第二幕の前半は主人公にとって「楽勝」の展開であるが、ミッドポイント (中間点) を境として、主人公は後半から急速に逆境へ転落する。そのようにして、上昇する主人公が一転して下降していくため、第二幕の前半と後半は正反対の展開となる。(Wikipeadiaの三幕構成の記事より)

楽な道の先にあるものは実は行き詰まりだったのである。彼は道を引き返し、困難な道を選択しなければならない。後半に入ると多くの成長物語が主人公の苦境を語るのは、このような理屈による。

具体的に作品を取り上げて説明しよう。三島由紀夫の『金閣寺』においては、戦争によって空襲に遭い、金閣寺という美の権化とともに死ぬのが主人公にとっては楽な道である。しかしそれは終戦というミッドポイントを通過して不可能なものとなる。彼は今度は自分の手によって金閣寺を焼き、しかも生き延びるという困難な道を選択することになる。

『失われた時を求めて』中の『スワンの恋』においては、主人公の前に示されているのは次の二つの道である。すなわちサロンで多くの人と親しく交わり、恋人と甘い生活を送るのが楽な道であり、芸術を研究するのが困難な道である。前半は望んだ通りに事が運ぶが、後半は一転してサロンの人たちはスワンに冷たくなり、恋人も浮気に走る。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版においては、主人公の前に開かれているのは父性の発展と母性の発展という二つの道である。主人公シンジは男性なので、父性を発展させるのは楽な道である。事実彼は、破のラストシーンにおいて父親に逆らうまでに人間性を成長させる。しかしそれは後半に入ると役に立たなくなる。この物語では母性こそが真に問われるべきもの、価値あるものだからだ。

このようにして中間点を通過すると多くの物語は暗い様相を見せ、主人公はどん底まで落ちて苦しむことになるが、最終的に彼は困難な道をも征服し、真の勝利を遂げる。溝口は金閣寺を焼いた上で自死をはねつけ生きることを決意し、スワンは小楽節の真価と芸術の神髄を理解し、シンジは父親を対話によって打倒して世界を再創造する。

このような構造が理解できていると、3作目のQで急激に主人公の状況が下降していき、深く苦しむのも理解されるのである。

序・破を読み解く

それでは冒頭から物語を見ていく。コツは、あらゆる登場人物、あらゆるエピソードを、次の二点のどちらか、あるいは両方に還元して読み解いていくことである。

シンジとゲンドウの関係性

シンジとアスカの関係性

序においては、それまで全く断絶していた父親と主人公の関係性がスタートを切る。この時点においては、主人公にとってエヴァに乗ることはまったく受け身のことであり、ただ父親の希望に沿っているだけのことである。シンジの側は父親との関係性に甘い希望を抱いており、父から褒められることを求めている。

しかしゲンドウとシンジの関係性はまったく荒廃している。それは水の一滴も見当たらない乾いた砂漠のようだ。だからそれを仲介する人物としてミサトが配置される。ミサトは女性だが、戦闘を指示する上司として、シンジの父親代理として機能する。ミサトはシンジが初戦を勝ったことを褒めるが、これはゲンドウが直接褒められるほどシンジとの関係性がまだ縮まっていないので、差し当たりの代理としてミサトが褒めていると受け取れる。またシンジはふとしたことから拗ねてみせ、ミサトの家に帰ろうとせずに放浪するが、この行為は、ゲンドウには通じない甘えた態度を、代理人であるミサトに対して行っているのだと解釈できる。ゲンドウとの関係はまったく不毛であり、そのような態度は一切通じないので、彼は代わりにミサトに対して反抗してみせるのだ。ただそれは親に構って欲しいことの裏返しであって、本物の反抗とは言えない。

次に第6使徒が襲来し、シンジは使徒からレーザー攻撃を受けて苦しみを味わうが、その最中に彼が「父さん、助けて」と叫ぶのは注目に値する。この時点ではシンジは心理的には父親の支配下にあり、まったくの子供である。その後に仕切り直しが行われ、ヤシマ作戦が開始されてエヴァと使徒は再び戦う。戦闘中にゲンドウは土壇場でパイロットの交代を言い出すのだが、ここでミサトはゲンドウに対して「自分の息子を信じろ」と言う。これはつまりシンジが言いたいことをミサトが代弁しているのである。彼女はゲンドウとシンジの仲介役なのだ。

レイは設定的にも物語的にも、母親ユイからの使者であると捉えることができる。レイはシンジに対して父親を信じろと主張する。レイもまたシンジとゲンドウの仲介を務める存在なのだ。それは破で食事会を企画する様子からも窺える。またレイは使徒のレーザー攻撃に対して身を呈してシンジを守るが、それは母親の献身の姿勢に近い。

以上のような経過の結果として、シンジとゲンドウの関係性は進展を見せる。破は母の墓前から話が始まるのだが、そこでシンジは父と対話するのだ。また、落下攻撃をしてくる使徒をアスカやレイと協力して倒した後、シンジはゲンドウから初めて褒められる。彼は父から褒められて精神的に成長する。もっともこの後にアスカがシンジのベッドに寝転がって、シンジが父親から褒められたことを嬉しそうに報告するのを聞くのは興味深い場面だ。このシーンはまるでアスカが「まだアンタは親にこだわっているのか。そんな調子ではまだまだ私を支えられるほど成長しているとは言えないわね」と暗に言っていると受け取れなくもない。

破の序盤では、加持に案内されて子供たちは日本海洋生態系保存研究機構という場所に連れられる。そこで彼らは青い海と、泳ぐ魚たちを目撃し、とても感動する。シンジは加持と対話する。潮風とは妙な匂いがするとシンジは言い、加持はそれは生き物が腐った匂いが混じっているんだと説明する。それもまた生命というものだと彼は言う。セカンドインパクトという大災害によって世界中の海が荒廃し、赤くなってしまった。いつか綺麗な海が取り戻される未来について彼は語る。このエピソードにはかなりの尺が割かれているので、何らかの物語上の意味があると考えて間違いない。

実は赤い海は、荒廃してしまった母性を意味しているのだ。母なる海は本来多くの生命を育てるものだったが、セカンドインパクトによって不毛な場所へと姿を変えてしまった。子供たちが魚や青い海を見て感動するのは、失われてしまった母性を垣間見て感動していると受け取れるのである。それは宝であり、いつの日か取り戻さなければならない目標なのだ。

そして赤い海はゲンドウとアスカの心象風景だと捉えるのが正解である。ゲンドウは妻を失ったために母性から離れてしまった。アスカは親からの愛情を存分に受け取れず、競争社会で、つまりエヴァに乗って優秀な成績を収めることでしか己を証明する術がない。そのような生き方には女性が本来持つべき母性を発展させる機会がなく、彼女はシンジやレイをもライバルだと考えて攻撃的な態度に出てしまう。

アスカはエヴァンゲリオンの正ヒロインである。彼女の魂は傷ついている。男勝りの攻撃的な性格はみずからの傷を守るための防御に過ぎない。彼女は異性からの優しさと包容力を必要としている。この基本的な性格は他の多くの女性の登場人物にも見られるものだ。加持はミサトに対してもっと余裕を持てとアドバイスするが、これは言い換えればミサトがアスカ的性格を持っていることを意味する。加持はシンジを農耕に誘うのだが、これが優しさや包容力、もっと言えば母性を育てる訓練なのだと思うと、シン・エヴァンゲリオンにも話が繋がっていき、理解が進むのである。

本稿の初めでシンジとゲンドウの関係性、およびシンジとアスカの関係性がエヴァンゲリオンの物語のポイントだと述べたが、これは言い換えると、エヴァンゲリオンの物語としてのゴールは、シンジとゲンドウが仲良くなること、シンジとアスカが仲良くなることだと言える。そして後者は、女性も戦いに参加せざるを得なくなったこの現代社会において、いかに男性が女性の傷ついた魂を癒すか、という課題に繋がっていると言えるのである。このような理解に立つと、アスカが乗った第三号機を倒すことをシンジが頑固に拒否することも、よく分かるのである。アスカを傷つけることは物語のゴールと真逆の行動なのだ。しかし父親の指示によってダミーシステムが初号機に適用され、シンジの乗ったエヴァはアスカを傷つけることになってしまう。ゲンドウはシンジに対して第三号機を「目標だ」と言い、「お前が倒せ」と迫る。

こうした対話によって親子の関係は後退していく。シンジはゲンドウに対してもうエヴァには乗らないと宣言する。

ゲンドウはここで初めてシンジに説教する。「また逃げ出すのか。自分の願望はあらゆる犠牲を払い、自分の力で実現させるものだ。他人から与えられるものではない。シンジ、大人になれ」。この犠牲を支払って目標を達成するという考え方は、完全に父性原理に寄ったものである。ゲンドウの主張は最終作のシン・エヴァンゲリオンの物語とは反対を向いているので、シンジは拒絶する。ここにはシンジの成長が見て取れる。彼はクラスメートやアスカやレイ、ミサトと仲を深めていく中で、人間性を深め、父親との関係性だけに囚われない態度を身につけたのである。ラストになってミサトがシンジを応援するが、その際彼女は「行きなさいシンジくん。誰かのためじゃない。あなた自身の願いのために」と言う。シンジはそれまで父親に望まれてエヴァに乗っていたのが、破の最後は自分の望みでエヴァに乗るようになった訳だ。それは確かな成長への一歩だ。彼は自分の意志を確立させ、他人(ゲンドウ)と衝突しようともそれを貫くだけの父性を内側に打ち立てたのである。Qの最初ではシンジは自らエヴァに乗りたいと言い出すが、これは破での彼の成長がそのまま物語として引き継がれていることを意味する。エヴァに乗ってアスカを助けたいとシンジは発言している。

破で物語がエンディングを迎えていたら、エヴァンゲリオンはとても分かりやすいお話だったであろう。アスカが存在せず、レイが正ヒロインだったら、ここで終わっても良さそうである。そうならない所がエヴァンゲリオンの複雑な所であり、訳の分からない点だ。よく反省してみると実はこの時点でゲンドウとの関係性もアスカとの関係性もほとんど解決されていない。

破のラストでシンジはレイを助ける。正ヒロインであるアスカを助けずにレイを助けるのである。ところがレイは母であるユイの代理的な存在なので、異性としての結合は不可能である。それは近親相姦に当たるのでタブーだし、レイはアスカと課題を同じくしていないので、実はメインテーマに沿った行動になっていないのである。この場面では「翼をください」が流れるので一見感動的に思えるのだが、実はこの選曲は皮肉である。事実、最後の最後にゲンドウたちは事態が計画通りであることを言う。シンジは父親に反抗して自由を得たような気持ちになるのだが、実際はまったくそうではないという話運びなのだ。エヴァンゲリオンで求められている父親との関係性の解決の仕方は、反逆して力で強引に倒すというものではないと受け取れるのである。

Qを読み解く

次にQが来る。この映画は訳が分からない。最初から最後まで意味不明な映画である。いつの間にか十四年が経過しているし、ミサトたちとネルフは対立しているし、サードインパクトで世界が崩壊したのはシンジのせいだとひたすら責められるので、視聴者は最初から最後まで混乱し続けることになる。

Qへの理解度が高い人はエヴァンゲリオンの理解度が高い人である。実はこの映画はたった一言で要約することができる。

Qとは、アスカがシンジに対して怒り続けるだけの映画である。その一つだけを、ただそれだけを95分まるまる全部使って表現しているのだ。この映画ではゲンドウの話はほとんど出てこない。

アスカの女性としての怒りは、男性であるシンジから見るとまったく不条理に思える。出所が不明だし、火のように強烈なので、手に負えない。ともかくシンジがシンジである限り怒り続けるというような、存在の根本からの否定のように思われるのだ。一方アスカから見ると、シンジは自分の短所にまったく気づいておらず、その鈍感さが癪に触って仕方がない。自分はこんなにも苦しんでいるのに、なぜお前は平然としているのか。私の苦しみに対して理解を示さないどころか、苦しみがあることを認識すらしていないではないか。アスカは実はそう言いたいのだが、言語化することができない。それが魂の苦しみの難しさである。彼女は言葉にできない痛みを、言葉にしないまま異性のパートナーに理解してほしい。そうした理解の上に立った優しさが少しでもあれば自分は救われるのだがと彼女は思っている。Qという映画はこのようなアスカの怒りを十全に表現している。Qという映画の訳の分からなさは、必然的なものなのだ。シンジはそれをぶつけられて、一度地獄の底まで落ちなければならない。

サードインパクトによって海だけでなく大地までもが赤く染まり不毛な場所になってしまったのは、アスカの心象風景がさらに荒廃してしまったことを意味していると受け取れる。強調されるシンジの罪とは、分かりやすく翻訳すると、異性の魂の苦しみを理解しようとしない彼の姿勢のことだ。シンジは呆れるほど鈍感なので、一体何を罪と指摘されているのかまったく分からない。そのような混乱は視聴者にも共有されるように描かれている。

カヲルは消極的なキャラクターである。彼は、アスカからの攻撃に耐えられないシンジが逃げ込む先としての、言わば防空壕のような人物だ。特に理由もなく最初からシンジに好意を持ってくれている。女性であるアスカからの逃避先なので、性別が男性なのである。そういう成り立ちから、結果的にゲンドウの可能性としてのシンジへの好意を表す代理者としての役目も担う。カヲルの役割はシンジと仲良くなった上で殺されることである。つまりそれによってシンジは防空壕から引っ張り出されて、もうこれ以上は無理というぐらいにアスカに締め上げられることになる。物語は主人公に対して残酷にも、どん底まで落ちることを要求するのだ。これによってゲンドウとの関係性も一歩進む。父子としての甘い関係性が消失し、シンジがゲンドウを他者として認識するようになるのである。

シン・エヴァンゲリオンを読み解く

最終作のシン・エヴァンゲリオンでは落ちるところまで落ちたシンジが再生する過程が描かれる。そのような回復の中で、レイの協力を得て、つまり母親の婉曲的な支援を受けて、シンジは母性を獲得する。

序盤の農村のシーンではこれでもかというほど母性というテーマが強調されている。医師となったトウジは産婦と挨拶するし、道を歩いている猫は妊娠しているし、家に帰ればトウジの赤ん坊と妻が出てくる。そうした牧歌的な生活の中で主人公シンジは自然と触れ合いながら自分の心を回復していく。

レイはそこで赤ん坊と母親の両方の役割を果たす。何も知らない彼女が様々なことを素直に学んでいく様は赤ん坊としての役割であり、言ってみればシンジが心を回復するという仕事を代行していると受け取れる。またシンジに対して好意を告げて回復を促すのは母親としての役割である。彼女は死ぬが、その犠牲はシンジを成長させる要因として働く。そういう意味では彼女の死は母親の献身にも似ているのである。シンジは沈黙と孤独という影の仕事をし、レイは日の当たる場所で様々な好意的人物に囲まれながら成長するという陽の仕事をするが、それらは最終的にシンジの回復という結果に合流していく。これはどこか日本神話の天岩戸に似ている。スサノオの行いにアマテラスが心を痛め、岩戸に引きこもった結果全世界が暗闇に包まれてしまったが、神々が宴会を始めたところ、アマテラスは岩戸の扉を開けたというエピソードである。なおレイは終盤で登場するシンジの母親ユイを予兆する存在でもある。

それにしても田植えのシーンは印象的であった。シンエヴァ=田植えと言ってもいいぐらいの出来である。これはラストの、シンジによる世界の再創造を予告する効果がある。

さて、その後さまざまな経過があり、物語の中心は父親対息子の戦いになっていく。彼らは最初は殴り合いの戦いを演じるのだが、ムードは切り替わって対話に移っていく。この時シンジの側から対話を持ちかけている点は注目に値する。彼は成長しているのである。その後父親は心の傷を告白し、シンジは理解を示す。シンジは自らの内面にある母性を発展させて、ゲンドウとの戦いに臨んだ。彼は力で父親を屈服させるのではなく、対話で父親を倒すのである。

シンジが槍を用いて世界を再創造するのは日本神話からの引用だが、彼は神話のように異性のパートナーと共にそれを行うのではなく、一人で実行する。シンジは自分の心の中に父性と母性の両方を発展させたので、一人で問題ないのだ。そして彼は世界を平常に復する。

ここまでの考察を念頭に入れて『シン・エヴァンゲリオン』の序盤の農村のシーンを見返すと、壊れた車両が図書室として再利用されている点は注目に値する。図書室は内側に客を招き入れて、人々に静謐と、物語という名の深い知恵と栄養を与える。それはまるで胎児を育てる妊婦の腹のようだ。鉄道は自らの在り方を通して、シンジに対し「今は走るべき時ではない。回復し、魂を育むべき時だ」と教えているのである。

ところで、アスカとシンジは結ばれない。あるべき理想としては、シンジはアスカを救うべきである。しかしそのテーマは今回は庵野監督の手に余ったという訳だろう。脇役であるケンスケにアスカは任せられ、アスカの魂が癒される過程には尺はあまり割かれない。

以上の議論を振り返ると、最初に課題された二つのテーマの内、ゲンドウとの関係性は100%解決され、アスカとの関係性は50%解決された、という所だろうか。異性というテーマは今後の作品に期待することにしたい。

ラストの空撮は非常に感動的である。実はこれは破の序盤で加持に案内された日本海洋生態系保存研究機構での光景が伏線になっている。赤い海と青い海の対比のシーンである。荒れ果てた「赤」は完全に消え去り、母性を象徴する「青」によって物語は幕を閉じる。