予言は非常に効果的な文学的技法である。シェイクスピアの『マクベス』において、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』において、あるいは映画の『タイタニック』において予言は効果的に使われる。予言は暗示的であり分かりづらい。ゆえにそれが実現される瞬間には大きな驚きが呼び起こされる。不思議と人間はすでに知らされていることに驚きを覚えるのである。

予言の変形はあらゆるところで顔を出す。たとえば次の記事で解説した物語の構成技法も、予言に似たものだと理解できるだろう。

入れ子構造とくりかえし

この場合は入れ子の内側で起こった一回目の出来事が予言だととらえられる。外側での二回目の出来事が予言の実現なのだ。当然二回目のほうに物語の焦点は置かれており、それは劇的なものとなる。

あるいは抽象的議論を登場人物たちにさせて、終盤でその抽象性の具体例にあたる物語展開を起こすというのも、予言の変形だと思われる。このテクニックは『流れよわが涙、と警官は言った』や『色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年』で見ることができる。

予言の技法に共通しているのは次の性質である。

  • 出来事は二回起こる。一回目が予言であり、二回目が実現である。実現のほうにドラマの力点は置かれる。
  • 予言と実現の間には物語の構造的・あるいは性質的な意味あいにおいて距離がある。たとえば入れ子構造の外と内。あるいは抽象的対話と具体的な物語展開といった「距離」である。

こう考えると、典型的な悲劇の予言における「距離」は何に当たるのか、という疑問が生まれるだろう。『オイディプス王』においては以前説明したが、予言には「まさか当たるはずがない」という人間(=演技者)の願望がくっついており、実現には「必ず当たる」という神(=観客)の運命観が付属している。人間(=部分知の存在)と神(=全知の存在)という距離が予言と実現のあいだには存在していると考えると、割と上述の理論にも一貫性があると思えてくる。

この理論を活用するとたとえば次のようなことが言える。

小説の序盤において、あるストーリー展開を、人間はまったく登場しない形で行わせる。街そのものや車や橋といった無機物を主役にして物語を行わせるのである。それも歴史的な出来事の叙述という形で書く。次にその作品の終盤で、人間の登場人物たちに、最初のものとよく似たストーリ―展開をさせるのである。もちろんこれは普通の小説のように目の前で起きているかのような描写で物語る。するとこれは予言と実現の物語構成にピタリと当てはまるので、非常に大きな効果を発揮する、ということになるだろう。