今日は物を考えるということについて考える。

もしもある人が一切走らないままの日々を長いあいだ送れば、普通は彼・彼女の足の筋力は落ちていくものだ。最終的には歩くこともおぼつかないぐらいになるだろう。この理屈は誰でも納得する。

ところが話題が知の領域に移ると、この理屈が理解できない人が出てくる。たとえば最近、僕ともうひとりの人でボイスチャットをしていて、小説を書くというのは人の心を操作する技術の追求であるという話をしていた。するとそれを脇で聞いていた人が、テキストチャットで「他者の心なんて分からないものだと思う」と言った。僕はその発言を無視したのでなにも論争は起こらなかったが、こういう人はたぶん世の中に山ほどいるのだろうな、と後になって思った。

僕は「他者の心なんて分からないものだ」という態度をよしとしない。逆に「他者の心はかならず自分に分かるし、しかも操作可能である」という前提で物を考えるようにしている。その方がはるかに建設的だからだ。

たとえば「他者の心なんて分からない」と決めつけると、その人はもうそこで他者の心の在り方を推察するのをやめてしまう。努力を支払わなくなってしまう。しかし「他者の心はかならず分かる」という前提で物を考えると、それが分かるまで考え続けるようになる。このようにして知の筋力と呼ぶべきものをどれだけ使うかが、人によって明確に差がついていく。言うまでもなく、「他者の心なんて分からない」と考える者は知力が衰えていき、そうでないと考える者は知力が身についていく。

「他者の心なんて分からない」と主張する人は、必ずと言っていいほど「そうでない」と考える者に対してエビデンスを要求する。証拠をよこせ、というわけだ。しかしこの種の物事にもちろんエビデンスは存在しない。存在し得ない、と言った方が正しいだろう。だから、恐るべきことだが、「他者の心なんて分からない」派が矯正されることは決してない。一方で「分かる派」はエビデンスがあろうがなかろうがずっと考え続けていくので、数十年の時間が経つと、両者の間にはすさまじい差ができてしまう。

では、なぜ「他者の心なんて分からない」と考える人がこの世に存在するのだろうか。

それは彼らが「自分の内心や考えていることが人に露見すること」を恐れているからだ。自分が裸にされてしまうことを恐れるあまり、「人には他者の心は分からない」というルールを信じるようになる。そのルールを信じていれば、他者に自分の心を読まれることもないはずだ、というわけである。

人間や心に関するあらゆる主張や真理に対して、「いやそんなものは人それぞれだから。人によって好みの差があるから」と言う人も、同じようなものである。例えば僕が『ドン・キホーテ前篇』こそがあらゆる小説の中でももっとも優れたものだ、その理由はこうだ、と主張すると、必ずと言っていいほど「でも芸術というのは人によって好みがあるからね」と口出しする者が出てくる。

彼が内心で恐れているのは、自分の芸術観のレベルの低さを他者からこき下ろされることである。責められること、採点されることに恐怖を覚えている。だからそのような差異をなかったことにしたくて「人それぞれ」を押し出しているわけだ。このようにして、恐れというものは実に人の思考を阻害するようである。

だから知力を鍛えるのに向いている人は、人を恐れない人であると考えられるだろう。自分自身も含めて、人間すべてを舐めている、軽んじている人こそが物を考えるのに向いている。彼は謙虚でもある。どれだけ他者からお前の位置はこれほど低い、と言われても、別に驚かない。それが自分の物差しと一致するなら、同意するし、傷つきもしない。自分自身をも含めた人間一般を尊重していないので、そのような指摘に傷つかないのである。彼はただ上を目指して歩き続ける。

それは善きことなのだろうか?

そうでもない、と考えて物を書いた人がいる。カーソン・マッカラーズというアメリカの作家だ。彼女は『心は孤独な狩人』という小説の中で、考える人や言葉というものを猛烈に非難した。その本の中では言葉は知と豊かさを象徴し、沈黙は愛と貧しさを意味している。基本的には作中において言葉はすべて虚しい結果に落ち込むのだが、沈黙も明確な勝利を遂げるわけではない。本質的な問題提起のみをマッカラーズはおこなっていると言えるだろう。

僕はこういう意見に対して何も反論できない。なぜなら、僕もまた作中のコープランド医師のようにあらゆる他者から嫌われているからだ。そしてそれは必要以上に僕の人生をむずかしくしてしまっている。僕は自分に正直になって、物を考えることをやめるべきなのかもしれない。

今のところの僕は、その二つの間、つまり考えることと考えないことの間を往復しながら過ごしている。そういう風にして、物を考えるということそれ自体について思いを巡らしている。