世の中には数多くの「物語の作り方」が存在している。本屋や本の通販サイトにいけばそういう本がたくさん並んでいるものだ。しかしそれらの内容は似たり寄ったりではなく、けっこうバリエーションがある。僕にとってそれは意外なことである。内容が異なるものが数多く並んでいるということは、決定的な解が存在しないということに他ならないからだ。

なぜ物語の作り方に決定版が存在しないのか、僕は長いあいだ不思議に思いつづけてきた。特に小説や漫画、映画などのような商業向けの物語についてさえ作り方に強力な解法が存在しないという事実は、僕に奇妙な感慨を抱かせる。それはどうしてなのだろう? それさえあれば金が儲かったり、名声が手に入ったりするじゃないか。でも実際に世に出ている小説や漫画や映画のほとんどは駄作である。一流の作品は少数だ。

僕は直感で、そこにこそ物語の作り方の秘密があると考えてきた。何かがそこにはある。決定版がないという事実は物語の作り方の核心と表裏一体なのではないだろうか。

そして最近、僕はその秘密をつかんだ。かなりガッシリと核心をつかんだ。だからここで皆さんにそれを共有したいと思う。

鍵は三幕構成のミッドポイントにある。典型的な三幕構成においては、ファースト・ターニングポイントからミッドポイントまでのあいだは主人公の状況は好転していき、逆にミッドポイントを通過すると劇的に降下していく。ここにこそ秘密がある。なぜこのような構造が生起するのであろうか。

それは、物語の構造、とくに成長物語につきものの核となる構造が由縁となっている。物語の主人公は通常、異なるふたつの方向の力によって引っ張られている。『失われたものたちの本』であれば人生の理不尽を否定するか、肯定して受け入れるか、である。あるいは『金閣寺』の主人公は、美に陶酔している自分と、美と一体化できない自分とに引き裂かれている。

もしもこのような状態を放っておいたら、主人公はふたつの力によって真っ二つに引き裂かれてしまうであろう。だから彼はどちらかを滅ぼし、片方を取らなければならない。『失われたものたちの本』の主人公は現実を受け入れ、理不尽をも飲み込んでいく。彼は物語をつくる作家となり、理不尽と希望とのあいだの妥協点を探って読者に与える人生を選ぶ。『金閣寺』の主人公は金閣寺を焼くことで美を滅ぼし、美と一体化できない自分を選択する。彼は生きることを選ぶのである。

ただし主人公はできればこのような構造を自覚せずに、逃げていたいと思っている。ここがミソなのである。それで彼は、自分を引っ張るふたつの力のうち、楽な方にふらふらと引かれていく。すなわち人生の理不尽を否定したり、いつまでも美に陶酔して金閣寺とともに死んでしまいたいと思ったりする。よって成長物語の主人公は多かれ少なかれ、誰もが愚者的なのである。正しい方を選ばずに間違った方を選ぶという点で、主人公は愚者なのだ。

このようにして主人公はミッドポイントまでは楽な道を進む。しかしそれは主人公の心の核にさだまっている倫理観によって強く否定される。楽な道の行きつく先は、じつは行き止まりだったのだ。これがミッドポイントである。これによって彼は挫折し、急降下する。救われる方法はただひとつ、困難な道に進むことを決意することだけである。

ここから言えることは、主人公が愚者でなければ物語は成り立たない、ということだ。もし主人公が物語がはじまってすぐに困難な道に堂々と入っていけば、そこにドラマは成り立たないであろう。物語がはじまるのは主人公が何も知らないときだけなのである。彼は比喩的な意味で盲目なのだ。

そして主人公とは作者の分身である。だから作者もおのずと愚者となり盲目となる。

つまり物語を作る者は、その物語についてほとんどを知らない。そういうときにこそ作者は自分の限界に迫る力、いや、限界を越える力が出せる。それが傑作の成り立つ過程なのである。

この説明ならば、物語を作る技術が属人的であることや、作る人によっておのずと違った個性が発揮されることや、その方法論がろくに共有されていないこともわかる。『カラマーゾフの兄弟』が出たのは1880年のことだ。にもかかわらずそれに匹敵するものは数少ない。本当は、もっとあったっていいはずなのだ。なにせ140年以上もの歳月が流れているのだから。