審美眼には二つの性質があると僕は思う。ひとつは、審美眼が高い者は程度の低い芸術を嫌うということ。もうひとつは、見巧者の見解はそうでない者には寸毫も理解できない、ということだ。
一つ目はこういうことだ。審美眼が10ある者は、2や3の程度の芸術を見ても、まったく心が動かされない。感動の程度は0である。どころか、うんざりさせられる。10の審美眼がある人は、10ないしはそれ以上のレベルの芸術を観ないと満足できない。
二つ目はこういうことだ。審美眼の高い人の考えていることは、低い人間にはいっさい理解できない。つまり、寸毫も分からないという形で理解できない。審美眼の低い人から見たら、高い人の話す言語はまるで異なる惑星の言葉のようだ。二者の相互理解の困難さはいちじるしく、互いに相手のことを「こいつは頭がおかしくなったんじゃないか?」と思うほどである。
ちなみに審美眼が高い人は低い人よりもずっと数が少ない。これらの事実から直ちに分かることがある。それは何か?
それは審美眼が高い人は低い人と分かり合えないということだ。低い人の方がマジョリティなので、基本的には高い人の方がずっと苦労することになる。右利きの人よりも左利きの人の方が苦労をすることと同じである。
審美眼を研ぎ澄まそうとする者は自然と孤独にならざるを得ない。美的感覚のレベルを上げようと思えば、人は必然的に芸術に対して関心を高めざるを得ないが、そのような「もっとも関心のある領域」で他者と分かり合えないのだから、当然彼は孤独になるだろう。彼は他者との会話にも困難を覚えざるを得ない。なにせ相手は自分の話すことをかけらも理解できないのだから。
審美眼が高い人にとって、低い人たちは敵である。彼らは弁解の余地なく愚かだ。悪に近接していると言ってもいいだろう。
芸術作品をつくるというのは、そうした審美眼の低い人たちにも理解できる形で優れたものをつくる、という営為に他ならない。そこにあるのは二種類の異なった努力である。ひとつは、難しいことを簡単なことに翻訳して伝えるという努力。もうひとつは、慈悲である。
慈悲とは何か? それは愚かで罪ある者たち――自分を排斥し、迫害してきた人間たち――を赦し、彼らに恵みを与えるということに他ならない。自分にとって最も大きな敵を、身を挺して救うということなのである。
これは、あまりにむずかしい。だからほとんどの芸術家は失敗する。あるいは、優れた作品をつくるのには成功しても、自分の身を破滅させたりする。じつに憐れで痛ましいことである。
僕は注意深く破滅を避けた上で成功したい。良い物をつくりたいと思っている。高い山に昇って、頂を極めた上でまた麓まで降りていきたい。そういうことを考えている。