挿話間の接続

『前篇』の序盤にはそのエッセンスが詰まっている。虐待されている羊飼いの少年をドン・キホーテが助ける話だ。弱者である少年をドン・キホーテが助ける。しかしこれはかえって雇用主を激怒させる結果となり、少年はよりひどい目に遭う。その後にドン・キホーテは商人の騾馬引きの手によって打ち据えられるのだ。

僕はここにさまざまなものを読みとる。たぶんセルバンテスはこうした少年、もしくはそれに近い立場の人間を目撃したことがあるのだろう。それに深い同情の念を寄せざるを得なかった。けれどもこうした人たちを簡単には救うことができないということを彼はよく知っていた。一時の助けを出しても、それは結局は救いにはならない。そこで彼はせめてフィクションの世界だけでも、と少年を助ける。悪を成敗してスカっとするのだ。しかしそれはよりひどい結果を招くだけである。ここは社会の実相の風刺ということだろう。

興味深いのは、その後にドン・キホーテが災難をかぶることである。少年の件とは離れた場所と人にかかわり、彼は浅はかな行為の報いを受ける。つまり、ここでは少年がドン・キホーテに仕返しをするのではなく、まったく無関係の他者がドン・キホーテに懲罰を与えているのだ。

セルバンテスはその慧眼によって、物語というのは作品内の事実の繋がりを要求しないものなのだということを知っていた。重要なのは作品内の物事の状況推移ではなく、読者の心理状況の推移なのだ。だからこの物語の展開で、じつは十分ドン・キホーテは羊飼いの少年の件について報いを受けているということになる、と彼は結論づけた。

このようなテクニックはたとえば短編『愚かな物好きの話』の前後でも用いられる。これは完全に独立した短編であり、ほとんど唐突に作中に挿入される。しかしじつはその後の幸福な展開にそなえた犠牲として機能しているのである。

また、随所でおこなわれるドン・キホーテの愚かな行為も犠牲として機能する。彼はあらゆる弱者の下につくことで、彼らを救っているのである。物語の幸福な展開は彼が根底で支えているのだ。こういう態度を我々はふつう、自己犠牲と呼んでいる。

ドン・キホーテの狂気

ドン・キホーテは狂っている。正確には正気と狂気のあいだを行き来する。なぜ彼は狂わなければならないのだろうか。ここではそこを論じる。

前回の記事に沿って言うと、彼は物語――騎士道物語に限らないあらゆる「物語」――の実体のなさを見抜いている。それは端的に嘘であり、あらゆる物語は最後には死に帰結し、現実の前に打ち砕かれるということを骨の髄まで知悉していた。それでもドン・キホーテは決意を固める。あらゆる人々、特に若者たちを物語という偉大な母の腕の中に抱き、彼らを守ることを決心するのだ。

そのとき、彼は狂う。物語を信じるという姿勢は、現実を知っているという足枷にとらわれているため、完全には自由でない。ドン・キホーテは物語の中に耽溺するという方向性と、夢から覚めて現実の前にくずおれるという方向性の二つに引き裂かれているのだ。その引き裂かれが彼を狂わせる。もしも彼が現実の側に力点を置くなら、ドン・キホーテはニヒリズムな冷笑主義者になっていたであろう。それは三島由紀夫の『豊饒の海』における本多にほかならない。しかしドン・キホーテは違う。彼は雄々しくも愚者になることを選択する。明らかに間違っていることを信じるという道を選ぶのだ。彼はそうと知っていながら、より困難な道を突き進む人物なのである。それがセルバンテスの考える「騎士道」なのだ。