僕は愚者になりたい。でも実際に愚者になるのは危険だ。なった途端に周囲の人から殺されかねないと思う。それほど、日本社会においては馬鹿なことをするというのは恐ろしい危険を冒すことなのだ。あるいは現実の人たちは強い暴力性を秘めており、排他的である、と言ってもいいかもしれない。

だから僕はせめて創作物のなかで愚者になろうと思う。自分の書く小説の中に登場人物として愚者を出すのだ。そして愚かな行為に精一杯はげむ。これなら誰にも殴られないし、ナイフで刺されなくて済む。安全だ。

ところで、愚者とは何者だろう?

たとえば道化は愚者だろうか。いや、違うだろう。戯曲『リア王』の中でリアにつきまとう道化は、決して愚者ではない。彼は単に馬鹿もので、お調子者で、皮肉屋なだけだ。愚者とはだいぶ距離がある。

愚者が愚かなことをするのは、とぼけることと同じだろうか。いや、やっぱりこれも違うだろう。なんというか、「とぼける」ことには身を挺していない感じがある。熱狂的でないし、捨て身であるようにも思えない。愚者というものは熱狂的であり、進んで犠牲になろうという精神性があるものなのだ。一方、とぼけている人は静かで自己充足的だ。

愚者は演技的だ。他者を巻き込み、自分の作りあげる劇に付き合わせようとする傾向がある。『前篇』におけるドン・キホーテはまさに愚者の典型だろう。彼は嘘という物語に自分をのめり込ませるために、ある方策を取る。それは嘘を嘘であると知っている自分を、役として他者に割りあてる、ということだ。愚者は内部にある自制心を外へと解放し、「自分を止める」役割を他者にやらせる。そうすることで愚者は思う存分、捨て身で嘘にのめりこんでいくことができるのだ。愚者は熱情を込めて、体当たりで世界そのものにぶつかっていき、人々を救う物語を「本当だ」と声高に主張する。

愚者は通常、恐ろしい二つの力によって存在の根本を引き裂かれている。それは、たとえば親は子供を愛しているとか、結婚は好き合う二人の男女によって行われるとか、正義は最終的には悪に勝つとか、天国や霊魂は存在するといった素朴な信仰を信じる気持ちと、それらは現実には成り立たないという怜悧な知の二つである。信仰と知は矛盾し、互いに反発しあう。その解消、あるいはせめて衝突の一時的な緩和こそが愚者の求めているところである。このときに信仰の道を取ることが愚者の必須条件だと言えよう。もしも彼が知の道を取れば、『豊饒の海』のように、物語の最後にはニヒリズムと破滅が待っていることだろう。

愚者が演技的であるというのはこの意味である。つまり知を知らないふりをして、信仰へと狂ったように突き進むというところが、いかにも演技的なのである。彼は知というおぞましい呪いを振り払うことができない。だからそれを他者に引き受けてもらうことで、彼は善の物語を信じることができるわけだ。他者は知の役を引き受け、愚者をあざ笑うことで快を得る。これはその人が役目を引き受けたり劇に参加したりすることの(表面的な)報酬である。

愚者の周囲の人物たちは表面的な報酬を求めて集まる。しかし愚者が真に企図していることは実はもっと大きなことである。それは善という物語の復権であり、再生なのである。人は苦しんでいる人を見ると、納得する。その苦しみから、その人の在り方を正当と受け取り、かつ自分の心が落ち着く。これは言い換えると、人は善の物語に体当たりで取り組んでいる愚者の姿を見ると、自分の中の「なぜ世界に善はもたらされないのか(もっと簡潔に言えば、なぜ自分は不幸であるのか)」という疑念が払拭され、気持ちが癒されるということを意味する。それにより人はふたたび善を信じる姿勢を取り戻すのだ。

キリストは愚者だろうか。彼は、少し違う。簡単に言えば、真のキリストの信仰者は、絶望的なほどには信仰にゆらぎを感じないし、感じるべきではない。また、愚者はキリストよりは偉大でない。愚者はキリストよりも弱いし、人に与える信仰の力も小さい。その代わり、彼はとても柔軟である。それぞれの時代、それぞれの社会、それぞれの場において最適な物語を見出し、自分のふるまいを決定できるという性質を持っている。けれどもその力は長い間は継続しないので、誰かがリレーのバトンを継いでいく必要性があるのだ。僕はそれに参加したいと願っている。