昔は僕にも個性的な文体を楽しんでいた時期があった。具体的には小説の『失われた時を求めて』や『百年の孤独』、『冷血』や『ロング・グッドバイ』といった作品群を読んで楽しんでいた。これらの作品はいずれも、作者の感性に根付いた独特の言い回しや表現の価値により、小説の歴史に残っている。発酵食品のように匂いのきつい、それでいて一度慣れるとやみつきになってしまうような独自の魅力を持った作品たちだ。
僕は一時期、そういう個性ある文体を確立することこそが作家のやるべきことなのだと思っていた。それこそが芸術であって、誰にもまねできない形で自己を表現するこそが真の達成なのだと信じていた。
現在は、そういう風には考えていない。それは浅はかな、幼稚な考えなのだったと今では思っている。
その後、僕は作家を志し、村上春樹の文体や作風をまねた作品をいくつか書いた。彼の文体は、作品によってさまざまではあるものの、基本的には個性がない。無の作家だと言える。その無の極致と呼べる作品が短編の『ウィズ・ザ・ビートルズ』である。これは本当にあらゆる角を取り除き、無個性を極めた文体で書かれている小説だ。十歳ぐらいの子でも苦もなく最後まで読めそうである。もちろん、その奥深さが分かるかどうかは別だが。
その『ウィズ・ザ・ビートルズ』こそが僕の目指す文体の理想だった。実際にそこまで行けたかどうかは別として、ある程度までは実現できたと思っている。
そして僕は今では舵を切り、村上春樹とは別の道を行こうと考えている。僕は作中で、必要に応じて文体を伸長しようと考えている。ベースラインはあくまでも村上春樹の「無」の文体にしておき、その上に建設する形で、ところどころで個性あふれる言い回しをするのだ。
念のために補足しておくと、これは様々な文体をモザイク模様のように結合する、という話ではない。たぶんそういうことをやった人は以前にもさまざまにいるだろう。僕の計画では、作中に登場する文体はあるひとつの目盛りで計測されており、価値判断がなされている。それは、個性だ。これは個性ゼロを『ウィズ・ザ・ビートルズ』の文体としてベースラインに置き、それで小説を書き進めて、ところどころで個性がプラスである書き方を導入する、という話なのである。ちゃんと規則性や秩序があるのだ。こういうことをやった人はほとんどいないのではないだろうか。
これは、かなり効果が高いのではないかと思っている。確信はないが、実験してみるだけの価値はありそうだ。いま僕はその短編小説に取りかかっている。ちなみに今作っているノベルゲームの方にもあるていどそのような創作のエッセンスが取り入れられている。