前回の記事の続きである。

僕はここ三年半ほど小説を書いている。その中で、面白い小説だけは絶対に書かないようにしてきた。僕は「面白さ」の成分を自分の小説の中から徹底的に追い出そうと努めてきたのである。そういう執筆の姿勢にたどり着いた経緯を本稿では述べる。

さて、僕は日ごろから熱心にホロライブのVtuberたちを観ている。それも切り抜き動画ではなく、ライブ配信を観ている。僕がお気に入りなのは博衣こよりちゃんと音乃瀬奏ちゃんだ。彼女たちは可愛くて元気な声を出す。視聴者に対するサービス精神も旺盛だから、僕は心が癒される。これは冗談でもなんでもなく、僕がここ数年でいちばん時間を費やしたのはVtuberの視聴だ。執筆でもないし読書でもない。

なぜ僕はそんなに彼女たちに惹かれるのだろう。実は自分でも理由がよく分からない。不思議である。

観ていて面白いのだろうか? この問いに対しては明確に否とこたえられる。ホロライブのライブ配信の特徴のひとつは、とくに面白くないということだ。もちろん面白い瞬間もないわけではないが、基本的にはつまらない。それを僕は好んで観ている。切り抜き動画しか見ないという人が世間にはいるが、それは面白いものを求めている人達なのだと思う。僕のほうはあまり切り抜きを見ずにライブ配信ばかりを観ている。

僕が彼女たちを観ている理由のひとつに、寂しいからというのがある。僕には妻がおらず、恋人がおらず、友達がおらず、職場でも親しい人がおらず、ネット上にも親しい人はいない。話せる相手は皆無と言える。それでホロライブを熱心に観ているわけだ。一時的にではあるが、彼女たちの声を聞いていると僕は孤独がまぎれる。

この事実が僕に面白さというものを疑わせている理由のひとつだ。人を夢中にさせるコンテンツに面白さは不要なのだ。時には邪魔になることすらある。実際、僕はにじさんじがどうも苦手である。彼・彼女たちはホロライブよりはだいぶ面白い。けれどもそのVtuberたちが作り出す空間の雰囲気が、僕はなぜだか苦手なのだ。なじめないと思う。それで視聴を避けている。

ところで、僕はそれなりに文学の古典を読んできた。『ドン・キホーテ』、『カラマーゾフの兄弟』、『失われた時を求めて』、『百年の孤独』、『豊饒の海』、『ロング・グッドバイ』など、読んできた本は色々ある。それらの文学はどれも異常なほど面白かった。あり得ないくらい、と形容できるぐらいに面白かった。僕は文学に最高の形でノックアウトを食らってしまったのだ。

しかし、これらの書物はいずれも難しかった。読むのに精神の力を求められた。さまざまな古典を読み通してきた僕が思うのは、もう難解なものはうんざりだ、ということだ。僕自身の本当の欲求をじっくりと探ってみると、そこには「難しいものは嫌だ」という気持ちがあるのが認められた。別に自分の文学的な感性をフルに働かせて物を読みたいとは思わないし、知性を働かせてメタファーを読み解こうとは思わない。いや、そもそも「面白さ」を味わいたいとも思わない。それが自分の本音であることが分かった。僕はクリエイターとして自分の本音や欲求を大切にしたい。だから難しいもの、イコール面白いものは自分では書かない。そう決めた。

では僕はなにを書くべきなのか?

実はヒントがすでにある。それはヘミングウェイだ。彼の作品の『日はまた昇る』と『二つの心臓の大きな川』だ。僕は『日はまた昇る』の主人公が旅行先で眺めた光景に幸福感を覚える。また『二つの心臓の大きな川』に出てくる料理の手順の描写を魅力的に思う。なぜだかこれらの文章を読んでいると僕は心の充実を感じる。心の空隙が埋められてホッとするのだ。

それを出発点にして僕はさまざまな考察を重ねてきた。そうした考察の詳細や書くべき小説の正体を、今ここに書くつもりはない。僕はしばらくのあいだは自分という狭い部屋に閉じこもって、ひとりで文章をいじっていたい。ただ、自分の頭で考えてきたことを生かして新しい小説を書いてみようと思っているということだけを、ここに記しておくことにする。