吉村昭の『星への旅』を読んだ。それについて書く。

文体はやや硬いが、平易で簡潔である。一読してはっきりと意味が取れる箇所ばかりであり、物語も単純に進むため、難しいところはなにもないだろう。これを読んでまったく意味が分からなかったと言う読者はいないと思われる。

本作は若者が集団自殺をする話である。自死にはっきりとした動機はなく、ただうっすらとした閉塞感を出発点として、絶望よりもむしろ希望や好奇心を抱いて彼らは海に身投げをする。生に意味を見出せない彼らは、むしろ死の方に人生の進展があると思うのである。その自死は無邪気であり、彼らのおこなう活動のすべてに透明感がある。こうした透明な雰囲気は、圭一の親が豊かであり、対して漁村が貧しいということの描写や、最後の晩餐として出てきたアワビが妙においしいという描写によって下支えされている。タイトルが『星への旅』というロマンティックな雰囲気を持っていることもその一環だろう。

本作の特徴として、場所の設定や推移が的確であることが挙げられる。最初の場面はトラックのホロの中である。当然、狭い。それは若者たちの閉塞感を示している。同時にトラックは運転席とホロに二分されているから、グループ内の権力構造をも示しているわけである。主人公の圭一は権力を持たないのでホロの中にいる。

長い間ホロの中にいた圭一は、目的地についてようやく外に出る。解放である。場所の推移によって、この「閉塞からの解放」というテーマは続いていく。ホロから野辺、野辺から海へ、そして海から宇宙へと至るのである。圭一はより広い場所へ移動していくわけなのだ。

海が旅の目的地であることは象徴的である。すでに『古事記』について書いた記事で述べたが、日本人にとって海とは、母性であり、かつ死なのである。そうして考えると、「人は死んだら星になる」ことを祖母が圭一に教えてくれたことが理解できる。直接の母は距離が近すぎるので圭一の側に拒否感が働くため、死という崇高なことを教えてはくれない。いっぽう祖母は血の繋がりがありながらもやや距離が遠く、老いている。それは母であり、同時に死の属性を帯びており、かつ距離感が適切なので、圭一に死のことを教えてくれるのだ。圭一はその教えに従って死に、星になる。たとえば岩にぶつかりそうになるものの痛みが訪れないというのは、「母性」の働き以外には考えられない。

作品の最後に置かれた、圭一が宇宙へ進む文章は秀でている。その直前に至るまでは小説は完全にリアリズムに支配されているが、最後になって突如として反転し、非リアリズムをふりかざすのである。これは前述の「閉塞感からの解放」と合わせて、二重の効果となって読者の胸を打つ。こうした二重構造が『星への旅』の優れた点である。