「見るなの禁」とは何なのか。本稿ではその正体について考えてみようと思う。
ここで言う「見るなの禁」とは、日本神話において、イザナギが黄泉の国で変り果てた妻の姿を目撃してしまう話や、トヨタマビメが出産時に鰐の姿を取ったところを夫が覗いてしまう話などのことである。
古事記的な物の考え方では、人間は二つ一組のペアによって存在が安定する。この考え方は個人の内側に対しても外側に対しても適用される。言い換えると、個人の内面は二つに分割されているととらえられる。表と裏である。個人の外においては、男と女という形で人間はくっつき、調和を作って安定すると考えられる。
これら二つは結合して一つにはならない。二つは弱い力で引き合っているが、それでも彼らは個であるために、結合にはいたらないのである。両者のあいだには必ず中間地帯が設定されている。そうした中間地帯にはなにもなく、ただ空気だけがある。したがって二人はただ声を発するだけでなく、空気を読むことによって通信することになる。あいだに距離があるからこそ、個人は内面を表と裏に分割して保持しておけるのだ、と考えられるだろう。相手に裏を見せずにすむのだ。
「見るなの禁」のひとつの解釈は、こうした中間の距離を男が踏破してしまうことだと言える。それは神の幕屋の内側まで侵入する行為なのだ。
ところで男女の安定は、あくまでも男と女それぞれが個人の内面の表と裏を保持し、メンテナンスしているからこそ成り立つものである。それは「表の姿を出しあう・見せあう」ことで安定する。だから仮に女が表を保てなくなると、両者のバランスは崩れてしまうだろう。そこで男は二のバランスの崩壊に危機感を覚えるのだが、もし彼が女が原因であるととらえると、男は中間距離を踏破して女に会いに行く、という愚行に走ってしまう。しかし会いに行った先で待っているものは、悲しいことに期待していた女の表の姿ではない。それは女が隠していたはずの裏の姿である。裏の姿は「自然」に近い。男は愚かなので、それを醜いと受け取ったり、化け物だと思ったりする。イザナギはイザナミから逃げ、その上で大岩を立てて生と死の境界をつくりあげるが、これは一度踏破してしまった中間地帯をふたたび復活させようとする行為だととらえられるだろう。
では男が「見るなの禁」を犯さないためにはどうすればいいのだろうか?
実はすでに村上春樹がひとつ解決例を立てている。小説『ねじまき鳥クロニクル』がそうである。そこで主人公は自己の存在の根本を否定されるほどの激しい痛みと喪失感を、他者の記憶を通じて知る。それが、ヒロインの裏の姿の痛みとどこかでつながっているのである。そのような痛みを知っているからこそ、主人公はヒロインの裏の姿を直接見ることは避ける。それによって事態は解決へと向かっていくのだ。つまりメタファーという通路を使って、男が直接ではなく婉曲的に女の裏の姿を知る、ということが、女の全体性の回復につながっていくわけである。