ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』を鴻巣友季子の訳で読んだ。それについて書く。
本作の中心にいるのはラムジー夫人である。彼女は愛の化身として、すべての登場人物を心理的に包み込んでいる。しかし二部で彼女は死に、三部はラムジー夫人がいないまま話が進行していく。
『百年の孤独』や『豊饒の海』においては主人公が死んでも交代が起こり、別の主人公が中心になって話が進行していく。それに対して『灯台へ』においてはそういうことは起きない。ラムジー夫人が死んだあとは最後まで主人公が不在のままである。中心が空(から)であるということがこの作品の特徴であると言える。もう少し踏み込んで言うと、普通の作品は中心が「有」であり、中心が各部に力を作用させることで全体の統合が取れるのだが、この作品の三部は中心が「無」なのである。そこでは各部が中心を左右から押し合うことで、全体の統合がとれる。ある力が存在すると、それとは逆を向く力が存在することで、力の打ち消し合いがおこなわれ、全体の調和というものが生まれるのである。
そこではひとつにまとまるということが必要とされない。重要なのは各員がお互いを意識しながら、調和がとれるように、むしろ別々の方角をむくことである。例えば最後の場面においてラムジーたちは移動して、灯台にたどりつく。しかしリリーたちは移動せず、それを遠くから眺める者として存在しているので、対照的な位置にあると言える。このように足を大きく開いて両端に置き、胴体のバランスを取ることが、中心が「無」であることの統制なのだと言える。
人はいつか必ず死ぬ。したがって我々は愛の喪失ということをどうしても避けられない。その事態にさいして人ができることは、無というものをしみじみと感じることだけである。自分の体が透明になり、内部ががらんどうになったように感じられる。重要なのはそれを嘆くことではなく、感じ入り、中心の「周囲」を有機的に働かせ、内部の空(くう)を保護するように自己の全体を安定させるということなのである。
ただ、この作品は個人がそのような働きをしているわけではない。そこがじつに奥深く、味わい深いところである。ラムジー一家の別荘に集う者たちが、集団としてそのような安定の運動を形成している。しかも各個人はそのような運動への寄与を自覚していない。そのような無自覚と安定性の運動の実現のあいだに、架け橋としてラムジー夫人の愛の思い出が存している。愛は死んでもなお、「無」として生きている者に働きかけるのだ。
『灯台へ』はじつに前衛的な作品だ。それは「ひとつにまとまるとはいかなることか」という問いを内包しており、それに対して見事に、まったく新しいやり方で答えている。中心がないのにひとつにまとまるということをウルフは描き切ったのだ。これは、まさに偉業だと僕は思う。