谷崎潤一郎の『秘密』を読んだ。それについて書く。
まずは話の大枠を述べよう。
ヒロインと主人公の関係性が結末で解消していくのは、主人公が見るなの禁を犯したからだととらえられる。イザナギがイザナミの死体を目撃したり、ホオリノミコトがトヨタマ姫の出産の際に本来の姿であるサメの姿を目撃してしまうことで、男女の関係性が断ち切れてしまうことと、『秘密』の物語展開は酷似している。
『秘密』はそのような関係性を作者が手で積み立てるようにして物語を展開させて、ゼロから徐々に構築していき、最後にこれを崩すというだけの話である。
どういうことか。まず主人公は「派手な贅沢なそうして平凡な東京」に位置している。これが平常の状態であり、スタート地点である。ここにおいて「秘密」の高さはまだゼロである。
今まで自分の無二の親友であった「派手な贅沢なそうして平凡な東京」という奴を置いてき堀にして、静かにその騒擾を傍観しながら、こっそり身を隠していられるのが、愉快でならなかった。
ここから彼は徐々に「秘密」を高く積み重ねていく。まず「人の気の附かない下町の曖昧なところ」にある寺の庫裡に住み着く。これが次の段階である。さらに彼は哲学や芸術に関する書を戸棚にしまい、怪しげな「魔術だの、催眠術だの、探偵小説だの、化学だの、解剖学だのの奇怪な説話と挿絵に富んでいる書物」を部屋中に置き、耽読する。これがさらなる段階である。
主人公は今度は変装に耽る。「なるべく人目にかからぬように毎晩服装を取り換えて公園の雑沓の中を潜って歩いたり」とある。この変装癖はエスカレートしていき、ついに女装に至る。言い換えると「秘密」の高さが積み上げられていく。彼は最初は女装をしたまま公園をうろついていたのだが、次第に大胆になり、そのまま活動写真を見にいったりする。
そこで主人公はT女という女に出会い、関係を結ぶようになる。主人公は女と情事を交わすために人力車に乗って移動をするのだが、乗車の間は目隠しをしていなければならない。そして連れられた先も場所が不明である。
部屋は八畳くらいもあろう。普請といい、装飾といい、なかなか立派で、木柄なども選んではあるが、ちょうどこの女の身分が分らぬと同様に、待合とも、妾宅とも、上流の堅気な住まいとも見極めがつかない。一方の縁側の外にはこんもりとした植え込みがあって、その向うは板塀に囲われている。唯これだけの眼界では、この家が東京のどの辺にあたるのか、大凡その見当すら判らなかった。
このようなT女との関係性こそが「秘密」の最高地点である。この関係をしばらく続けたのち、主人公はみずからT女の家までの道のりを推測して踏破し、街並みや女の正体を見抜いてしまう。その実相はT女の演出によって見せられていたものよりも遥かにつまらないものであった。
赤い燈火を湛えている夜の趣とは全く異なり、秋の日にかんかん照り附けられて乾涸びている貧相な家並みを見ると、何だか一時にがっかりして興が覚めてしまった。
主人公は見るなの禁を破ったのだ。このような正体の看破によって、これまで高く積まれてきた「秘密」は一気に崩れ去り、物語は結末に至る。以前、見るなの禁を破ることのメカニズムの詳細を次の記事で述べた。この記事で言っている「中間地帯の踏破」を文字通りの意味で『秘密』の主人公はおこなっていると言えるだろう。
以上が物語の大黒柱だが、これだけでは説明しきれない謎がある。なぜ主人公は女装をするのか。なぜ彼はT女を前にして自分の女装をくだらなく思い、やめてしまうのか、などの疑問である。
実際その女の隣にいると、私は今まで得意であった自分の扮装を卑しまない訳には行かなかった。表情の自由な、如何にも生き生きとした妖女の魅力に気圧されて、技巧を尽くした化粧も着附けも、醜く浅ましい化物のような気がした。女らしいという点からも、美しい器量からも、私は到底彼女の競争者ではなく、月の前の星のように果敢なく萎れてしまうのであった。
ここら辺は非常に説明がむずかしい。少なくとも僕には簡潔に答えることができないのだが、今持っている知識だけでなんとか正解に肉迫してみようと思う。
まずT女は主人公を圧倒する存在としてあらわれる。これは前述の引用から分かるだろう。次に彼女は、男を招いた先の家において、殊勝な姿を見せる。
昨夜のような派手な勝気な悧発な女が、どうしてこういう憂鬱な、殊勝な姿を見せることが出来るのであろう。さながら万事を打ち捨てて、私の前に魂を投げ出しているようであった。
言い換えれば、彼女は最初は強かったのが、次に逆転して弱くなっている。そして最終的に正体を看破されることで主人公にとってはつまらぬ存在に低下し、力は最低となる。なぜこうしたことが起こるのか。
主人公はT女と手紙を交換する。これは古事記的な行為である。アマテラスとスサノオはうけいの勝負において持ち物を交換するが、それにより彼女たちの立場は入れ替わる。はじめアマテラスがスサノオを疑い攻撃的な態度に出ており、スサノオが殊勝な態度をしていたのが、うけいの勝負を経過すると、態度が逆転してスサノオが大胆不敵になり、アマテラスが柔和になるのである。女性であるアマテラスがスサノオを迎えるときには男装をしていたことも、この『秘密』の場面と酷似している。
持ち物の交換は、二者が立場の入れ替えという劇的な行動を起こすための、前準備であると受け取れる。手紙の交換によって初め強かった女は弱くなり、男の側に主導権が移るのである。二者は入れ替わっている。ただしそこでは女の側が「秘密」を保持し、コントロールしているという背景もある。人力車による目隠しをしたままの移動がそうである。そういう意味では両者は拮抗している。「力」では男の方が強いのだが、女は「秘密」によってそれに対抗している、というわけだ。
男が愚かにも「力」によって強引に中間地帯を踏破し、女の「秘密」を暴くとき、男女の関係性は破壊される。これが『秘密』の帰結ではないだろうか。