しばらく前に僕は「さなコン」というウェブ小説のコンテストに自作を投稿した。それが次にかかげたリンクのもので、「遠くへ」という短編小説なのだが、これがなぜかけっこうな数の人にウケた。より正確に言うと、この作品は良いと言ってくれる人が多かった。言葉を費やして僕に感想を伝えてくれる人がかなりの数いた。

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僕としては肩の力を抜いて作為なしに書いたものなので、作品がウケたのは意外なことだった。同時にウェブに公開した作品が多くの人にウケるという体験は初めてだったので、かなり感動した。ウケるってこんなに気分がいいものなんだ、と知った。それで僕は万人受けということに関して考えさせられた。

一部の創作者は次のように言う。万人受けを初めから狙うのは創作における開拓精神の敗北である。人はより新しい文体を求めて小説を書くべきであり、まだ誰も見たことがないような表現方法で作品を作るべきだ。万人受けとはつまり、誰からも理解できるようなものを作ることであって、これは新しいところのない表現方法の再利用におちいってしまうから、創作の真髄に迫っているとはとうてい言えない。もっと言ってしまえば、万人受けとは堕落である。

僕はこれは間違っていると思う。万人受けというのは、言い換えれば「ハックする」ということに他ならないというのが僕の意見だ。万人受けを目指すと、人は自然と芸術に対する理解力が低い人に焦点を合わせざるを得ない。すると作る側は必然的に、限られた道具の中で執筆に取り組まざるを得なくなる。わかりやすい文体、むずかしくない熟語、素朴な比喩、そういったものだけで小説を構成せざるを得なくなる。

そういうとき作る側は何を考えるべきなのか?

答えはひとつ。限られた道具の使い方を工夫するということだ。道具について、誰も思っていなかった使い方の発明をする、ということである。僕はこれを「ハックする」と呼称したい。目覚ましいイノベーションを人々に叩きつけ、目を見開かせるということをする。たとえばヘミングウェイは『二つの心臓の大きな川』の中で隠喩の表現方法について革新を成し遂げた。

『二つの心臓の大きな川』を読む

詳細は上記の記事で述べているが、ヘミングウェイは鱒を「喩えるもの」として書きながらも、鱒によって「喩えられるもの」を完全に隠した。それを作品の外へと追放した。すると鱒には特別な比喩の力が宿り、なんとも言えない独自の味わいが小説全体にあらわれたのである。

他に例を挙げるとするなら村上春樹の『1Q84』における卵形の隠喩がそうだろう。村上は平易な文章だけで次のようなメタファーを構成した。すなわち容器の内側に人やものがいて、それが温められ、やがて内側から卵の殻である容器をうちやぶり、外へと出ていく。その型を「善のパターン」として念頭に入れた上で、さまざまなシーンを描いた。温室の中でしか生きられないめずらしい蝶たちを描き、高速道路で渋滞に遭遇したタクシーから思い切って外へと出て、非常階段を降りて脱出する女性を描いた。卵型の隠喩を多くのヴァリエーションでもって書いた結果、『1Q84』には読んだ人のたましいを揺さぶる偉大な力がそなわるようになった。

『1Q84』を読む4: 卵型の比喩

すると初学者だけでなく、見巧者をも唸らせる作品ができあがる。僕は万人受けを目指すというのはそういうことだと思う。どんな人間にも一個の力強いたましいが宿っていることを信じることだ。作家はてこの原理を用いて大きな岩を動かすように、限られた素朴な道具だけで彼らの心を打つものを作るべきだろう。それも、まったく新しいやり方で、だ。僕らは深い知恵でもってそれを作り出すのだ。

僕は今のところ、野性時代という新人賞に今年送った長編小説についてはそれができているように思う。