前回の記事の続きである。

これまでの議論をふりかえってみると次のようなことがわかる。すなわち霊とか魂とかが意味を持ったものとして立ち上がってくるためには、背景や文脈が必須だということである。我々は平常時にはこれらの話や宗教の教義に対して本能的にペテンの匂いをかぎつける。嘘だと知っているからだ。

また、魂や他界とは、話の上でしか存在しない虚構の事物である。言い方を変えると、話という土台があるあいだは存在し続けるが、話が終われば消えていく儚いものだ。死に瀕した人の切実さがそのような一時の信仰を実現させる。

これは物語と性質が似ていると僕は思う。我々は物語が続いているあいだは登場人物が本当に実在しているかのような気がする。物語においては心が動くさまざまな事件が起こり、我々は次に何が起こるのかと期待に胸をふくらませる。しかし我々が物語から離れれば、それらは虚構ということで心の隅へと退いていくことだろう。

魂や他界の話も同じである。我々はそれらを信仰することで、生きようとする希望と死の絶対性のあいだの葛藤を一時的に鎮めることができる。葛藤を鎮めたあとは、魂や他界といった「物語」の役割は消えて、我々は自分が消滅していくことを静かに認めることができる。

物語は現実と理想のあいだの橋渡しをする役割を持っている。物語の「中」では我々は理想的な状態にいることができる。英雄となり、恋をし、活躍をする。そこでは我々は魂となって天国へ渡ることさえ可能になっている。そこから物語の「外」へと返っていくとき、我々は不思議と納得感を手にしている。理想を諦め、現実を受け入れる準備ができている。たとえばヘミングウェイは敗北ということに興味を持ち、物語の最後に負ける主人公の姿を幾度も描いたが、それは理由のないことではないのである。

つまり、我々はみな儚い。皮肉なことに誕生の瞬間に死を運命づけられている。消滅から逃れられる人はどこにもおらず、生きているあいだに起きたことや成したことは、ふりかえってみればいずれも夢のようである。

その短い生のあいだに手にする一時の慰め。それが物語の正体だと僕は思う。魂とは、他界とは、そうした物語の極限の形であると言えるだろう。それは敗北と死を受け入れるための究極の装置であり、人間が最後に頼る避難所なのだ。

自分はいつでも死ぬ覚悟ができていると公言する者も含めて、患者ならだれでも希望を捨てない。私たちのインタビューで明らかになったことは、すべての患者がもっと生きられるという可能性を信じていたことだ。どんなときでも、もう生きる望みはない、という者は一人もいなかった。

(エリザベス・キューブラー・ロス『死ぬ瞬間』より)