僕は書くべき原稿がない状態になった。最低でもこれから一ヶ月は何も書かないと決めている。それで何をしているかというと、ともかく無について考えている。無について考えているとは、つまり何も考えていないのと同じことだ。
僕は無だ。からっぽ、と言ってもいいかもしれない。
無の状態はつらい。書き上げた短編も不評だし、野性時代に送った原稿も落選しても不思議はない。僕はいま望みというのがない状態だ。真空なので、いろいろと周りにある悪いものを吸い寄せてしまう。それがつらい。なんだか獣に自分の身を喰われているような感じだ。
ああ、体が骨になりそうだ。
ところで僕は他界ということをずっと考えている。他界とはすなわちあの世だ。実際には存在しない仮定の世界のことである。そこに住んでいる死者との交信ということを考えている。正確には、自分の書く物語があるとして、その中の登場人物はどうやって別世界の住人である死者と交信するのだろう、と考えている。死者と交信したいと思っている人の心境を想像するのだ。
すると、すべての事物がメタファーとして見えてくる。カフェの壁にかかった絵や、床に落ちているストローの包装紙や、向かいの男性が頬杖をして手元のタブレットの画面をじっと見ている光景が、何かしらの暗示をしているように見えてくる。それらが他界から送られてきた使者のように僕の目に映る。使者たちはメッセージをたずさえているに違いない。しかしそれらのメッセージは容易には自分の手に渡されないという事態の困難さ、微妙さがある。
そういうとき、比喩というのはやはり言葉の技術ではないな、と僕は思う。華麗な技術ほど薄っぺらく見えるものはない。やむにやまれぬ衝動としての比喩。それだけが唯一正しいものだし、作家が書くに値することなんだと思う。僕は『二つの心臓の大きな川』を思い出す。ヘミングウェイの書いた鱒の不完全なメタファーについて思いを馳せる。
メタファーは他界から送られてきたものである。でも、そこで僕は逆に考える。メタファーを通じて、それに自分から力を作用させて、あの世に働きかけることはできないだろうか。そういうことを考えたりもする。