僕は今ジョン・アーヴィングの『ガープの世界』を読んでいる。新潮文庫の上巻でP114まできた。ここまで読んで考えたことを記事にまとめようと思う。

考えさせられたのはアイロニーについてだ。この小説には全編にわたってアイロニーの力が満ちている。皮肉な運命観が作品全体をつらぬいていると言っていい。

『ガープの世界』を読んで僕が連想したのは戯曲の『オイディプス王』だ。『オイディプス王』はアイロニーの何たるかをときほぐして教えてくれる古典である。これについては次の記事に解説を書いた。

『オイディプス王』を読む

アイロニーの芯とは、主人公が対象に向かって放った矢が、的中せずに空中でひるがえり、矢を放った主人公の元へと返ってきてその胸をつらぬくところにある。

この「発生源へ返っていく」性質が物語のさまざまな要素に波及する結果として、次のようなことが起こる。

まず、事態の全体をとらえると、皮肉に見えるというのがある。アイロニーという感覚はこれである。アイロニーはその性格から言って悲劇と相性がいい。次に、歴史というのがある。「発生源へ返っていく」性質は空間だけでなく時間にも適用される。つまり主人公がこれまで生きてきた時間というのが空間的にとらえられ、それを遡っていくということが起こる。物語において主人公の生まれの由縁が問われるのである。

我々人間は原因と結果という物語を信奉している。矢が空中でひるがえって主人公の胸をつらぬくのには原因があるはずだと考える。そのような要求の結果として、歴史を遡っていく探偵的な行為がなされるわけだが、個人の歴史として遡れる限界はやはり生まれである。生誕の事情が奇怪であったから矢はひるがえって主人公を殺すのだ、と物語が解き明かすと、我々読者は納得するのだ。『オイディプス王』においてはそれは神の預言であるし、『ガープの世界』においてはジェニーとガープ軍曹との結合である。

上記以外にも知と神の問題というのがある。古代に『オイディプス王』を観ていた側は、おそらく物語の帰結を知った上で観ていたわけである。つまり観客は神であり、完全な知を持っている。それに対して演者は人であり、不完全な知しか持たない。オイディプスは神に近づこうとあがく。そして彼は神に邂逅した瞬間、すなわち完全な知に達した瞬間に破滅するのだ。知に関する不均衡があるときにこそアイロニーは立ち現れる、と言ってもいいかもしれない。オイディプスは雄弁だ。アイロニーは雄弁とも相性がいい。部分的な知しかない主人公がさも見事に言葉をあやつってみせるとき、観客はそこにアイロニーを見出している。オイディプスは自分が犯人であることを自分で暴く探偵である。どう見ても哀れで愚かに他ならない。

また、演者であるオイディプスは神=観客に捧げられるべき犠牲であるとも言える。我々人間は絶えず犠牲を要求している。物語が犠牲的な働きをなすにあたって、格好の機構となるのがアイロニーなのかもしれない。