前回の記事の続きである。

『オイディプス王』においては主人公オイディプスが犠牲になることによって、乱れた国テーバイが回復する。シェイクスピアの悲劇も似たようなものであり、『ロミオとジュリエット』の結末では主人公とヒロインが死ぬことによってモンタギュー家とキャピュレット家が対立をやめ、和解にいたる。つまり個人が犠牲に捧げられることによって世界が回復するという図式がそこには見られる。アイロニーの帰結は主人公の犠牲だ、と言うことができるだろう。物語の開始前には個人は秩序のある世界に内包されており、すべての物事が整然と進んでいたのが、物語の開始とともに世界は乱れ、個人はそれに翻弄されることになる。

それではなぜ世界は乱れるのだろうか。この問いは少々馬鹿げている。なぜ天気は乱れるのか、なぜ嵐はやってくるのかと問うようなものだからだ。物理学的にはそれは説明可能かもしれないが、人間が真に望んでいるのはそのような説明可能性だけではなく、嵐を鎮めることだ。言い換えると嵐の発生源の説明は、嵐を鎮めるための犠牲の選定と奉納を同時に意味していなくてはならない。考えてみれば劇『オイディプス王』のやっていることはまさにこれである。劇中ではミステリー作品としてオイディプス王の出生の秘密が徐々に明かされていくのだが、それが完全に解明される瞬間は、オイディプス王が犠牲としてささげられることを意味している。『オイディプス王』のやっていることは科学的だ、と言うこともできるだろう。原因を突き止めることで負の事象を解決しているからだ。

犠牲に選ばれた者はあらがい、苦悩する。観客はそこを見るために劇場に足を運んでいると言っても過言ではないだろう。物語の推進力は犠牲に選ばれた者に死と破滅を迫る。そこで彼が大いに苦しみ、悶えるからこそ、観客は心を癒されるのだ。心の底にたまった澱が払拭され、すっきりする。

以上のすべてにおいて基礎となるのは堅固な世界観である。世界に対する信頼や敬虔な畏れがなければ、世界が引き起こす嵐を正しいものとみなし、これを鎮めるために人間を犠牲に差し出すという考え方は生まれてこない。ここにおいては嵐が起こっている最中においても、それを引き起こしている側、すなわち世界や神は正しい者なのである。

見方を変えるなら、仮に主人公や観客が最初から世界の側に属していないなら、あるいは世界というものから切り離されているならば、このような物語は成立しないであろう。主人公が犠牲になってまで世界の回復に努める動機がないからである。

実際、シェイクスピア的な堂々たる悲劇というものは今は成立しない。主人公が破滅して終わる物語のことを人々はバッドエンドと呼ぶ。悲劇とは明らかに異なるニュアンスがその言葉には込められている。人々は自分個人の方が世界よりも大切だと当然のように思っている。だから自分が死んでまで世界を回復するという話は成立しない。いや、実際にそういう作品が現代でもあるじゃないかという意見はあるだろうが、死ぬ主人公は大抵「世界のため」ではなく恋人や家族のために死ぬ。やはり価値観は決定的に変化したと言わざるを得ない。