僕は『ちいかわ』の1巻から8巻までを読んだ。面白かった。この記事ではネタバレありで8巻について述べようと思う。8巻はいわゆる「セイレーン編」である。
まず前提について語る。『ちいかわ』の中心は主人公ちいかわと友人のハチワレの関係性だ。物語の中心はそこであり、他の要素はあくまでも二者を取り巻くものであって、物語性というレベルにおいては単なる奉仕者に過ぎない。
そういう目で見るとわかるのは、8巻で語られる人魚殺しの犯人たちは、あくまでもちいかわとハチワレの変形であるということだ。彼らは「別の世界においてはあったかもしれないちいかわとハチワレ」なのだ。『ちいかわ』という大きな物語の流れの中でそれが語られることにより、ちいかわとハチワレの関係性が、物語性というレベルにおいては何らかの変化が起こる。正確には可能性としての変化が植え付けられる。それが8巻の意義である。そういう意味では人魚殺しの犯人であるひとはとふたばは、大きな物語に捧げられた犠牲に過ぎない。
さて、ではちいかわとハチワレの関係性とは何であろうか。誰が見てもわかるのは、彼らは仲のいい友達だということだ。ではちいかわの作者が理想と考える友達とはどういう関係性のことを言うのであろう。
それは、少し意外に思う人もいるかもしれないが、実は漫画誌の少年ジャンプの世界における戦友だ。競い合うライバルと言ってもいいし、時に共闘もする関係性のことである。彼らは根っこのところでは人生や戦いに対する理念・哲学といったものを共有している。場合によっては助け合いもする。それが漫画『ちいかわ』における最高の倫理なのである。
上記のように考えると納得できる展開がある。ひとははふたばのために人魚を殺して食べさせる。そうして友達のふたばを助ける。すると、その結果として彼らは死よりも絶望的な結末を迎えてしまう。この流れは言い換えると、ひとははふたばを助けるべきではなかった、ということなのだ。それは「戦友」という高潔な倫理観に逆らうことなので、やってはいけないことなのである。
やってはいけないことをやってしまったふたりは罰を受ける。男は「戦友」とは近づき過ぎない方がいい、仲が良過ぎるのはよくない、ということなのだ。思えば、ちいかわはハチワレを自分の家に住まわせない。一方でひとはとふたばは同じ家に住む。そこらへんがちいかわたちとひとはたちの違いだろう。
ただし人魚殺しの犯人を見つけたちいかわは、彼らの罪を責めることができない。なぜか。彼らの罪を責めるということは、戦友という倫理観の押し付けであるし、それをしたら自分とハチワレの甘い関係性の否定に繋がってしまうからである。その時点ではちいかわとハチワレは戦友というよりは単なる仲良しの友達だ。だからそういう強者の倫理観に従うことができない。ここら辺の微妙な感情のせめぎ合いが、作中ではうまく表現されていたと思う。
ちなみにこうしたテーマは漫画『デビルマン』に端を発しており、たとえば『ベルセルク』や『NARUTO』、『ハンターハンター』にも引き継がれている。『ちいかわ』は実のところこうした漫画の系譜に属するのである。