この記事では二つのことを書く。一つ目は僕の小説の書き方の姿勢のこと。二つ目は僕が新しく書く小説の文体のことだ。

ここ数ヵ月は僕は動画制作をしていた。初めての体験だったがとても面白かった。その総決算としてストーリーものの長編動画を作ったりもした。

動画を作っている間は色々考えさせられた。動画を作っている間は、僕はともかく視聴者に伝わることやウケることを第一に考えていた。それが自然にできていた。翻って、僕は小説を書いている間はそれができていないということに気づかされた。僕は小説を書くときはいつも自分の中の美意識に従っていた。小説はこうあるべきだ、という価値観を一番に考えていた。読者に伝わるかどうかまでは考えていなかった。もっと言うと、僕が読者として想定していたのはドストエフスキーやヘミングウェイを読むような層だった。しかしそういった人はネット上にはほとんどいない。いたとしても、彼らはウェブ小説には目もくれない。そもそもスマートフォンというのは今挙げたような作家の作品を読むのに向いている道具ではない、というのもあるだろう。

だから僕は賞に出すことを目標に小説を書いていたのだが、これがなかなか選考を通らない。通らない上にネットで発表しても誰にも読まれないとなると踏んだりけったりだ。それでも僕は歯を食いしばって五年間ほど執筆を続けていたのだが、最近は嫌になってきた。つらいからだ。力を入れて書いた作品を否定されるのがとてもつらい。

何を言いたいかというと、僕はもう賞の獲得を目標にするのをやめようと思う。それはなんだか馬鹿らしい。それよりも目の前(ではないが、ネットのレベルでは目の前にいると言える)人々に向けて書いた方がいいと思うのだ。その方が確実だし、多分精神の健康にもいい。

ではそういう小説に向いた文体は何かということを考える。ともかく今まで僕がやっていた村上春樹的な文体はやめようと思う。幸いというか、ここ数年の村上春樹作品はあまり面白くないので、やめることにためらいを覚えなくて済む。

僕が考えているのは冗長性の排除だ。フィリップ・K・ディックの文体が理想に近い。彼は文章に文学的な装飾を施さない。あまりにも直接的にものを書く。ほとんど人物の心理描写をしないだけでなく、事物の描写をしてメタファーをほのめかすということもまったくやらない。ディックは基本的に物語の展開にしか興味がないのだ。

僕もそれをやろうと思う。ただ、ディックはそれでもまだ小説らしい文体だ。僕はもう、小説らしさというものを捨てて、人が子供に昔話や童話を語るときのような文体・作風にしてしまおうと思っている。そこまでいくともう小説とは呼べなくなってくると思うが、人に伝わるならそれで構わない。