最近僕は元気がない。体調はよいのだが、小説を読む気も書く気も起きないのだ。要はずっとぼうっとしているような気分だ。自分で言うのもなんだが、心ここにあらずである。

そこで、ここでは新しく書く小説の文体について夢想してみたい。最近僕は、ひょっとしたら新しい文学的な文体はウェブ小説の執筆に向いているのではないかという気がしてきている。以前はこの二つは水と油で相性が悪いと思っていたのだが、意外とそうでもないのではないかという思いが湧いてきた。

まず新しい文体においては、映画的な表現は避けたい。僕は今ネヴィル・シュートの『渚にて』を読んでいるのだが、この小説はいくらか映画的な文体をしている。目の前にある事物や人物の動作を描写することにかなりこだわっている。村上春樹の『1Q84』やユゴーの『ノートルダムドパリ』などはもっと映画的だろう。これらの作品には文章から迷いなく映像を起こすことができそうなところがけっこう多い。

かといって思弁的な表現も僕は避けたいと思っている。クンデラの『存在の耐えられない軽さ』のように作者が出てきて滔々と持論を述べることは絶対にやりたくない。僕は基本的には物語を語ることのみに集中したいのだ。

さらに言うと、僕は文体を華美なものにしたくない。装飾したくないし、独自なものにしたくない。言い換えると『失われた時を求めて』や『百年の孤独』や『灯台へ』のようなことはやらない。ごく普通の平易な文体がいいと思っているのだ。

なんだか僕はやりたくないことばかりを挙げている。まあそれも仕方ないだろう。新しい文体の姿がなかなか見えてこないからだ。それはたぶん三人称神視点であると思うのだが、そこも判然とはしていない。説明しているうちに聖書の創世記の共同訳が理想に近い文体であるような気がしてきた。僕は創世記の文章が好きである。ただ自分であの文体でそのまま書く気はしない。現代の小説にふさわしくはないし、とてつもなく偉そうだからだ。そのとてつもなく偉そうな文体が僕は好きなのだが、それはあくまでも読者としてである。自分で作るとしたら別の選択になるだろう。