村上春樹の『夏帆』と『武蔵境のありくい』を読んだ。それについて書く。
『夏帆』は『武蔵境のありくい』の開始点を書いただけの短い作品なので、割とそれ単体の面白さはどうでもいい。重要なのは『武蔵境のありくい』の方である。僕にとってはかなり面白く、満足できた作品だ。だからこの記事では主に『武蔵境のありくい』について書く。
主人公の夏帆は未成熟な女性だ。他人と戦うということについて無頓着なところがある。自分の美しさを磨くということについて積極的でない。というかそもそも自分の容姿が客観的に見てどこらへんの位置にあるのか、よく分かってなさそうだ。自分が世間の中で他の女性と戦ったり、異性とシビアな恋のやり取りをしたりすることについて確たるイメージがないようである。イラストレーターや絵本づくりの仕事に対しても野心がなさそうだ。端的に言うと、ぼけっとしている。そして本人はそのことに自覚がまるでない。
言い換えると夏帆は生存競争の残酷さを引き受けていない。そのために他者からの不意打ちに慣れておらず、特別な脆さを抱えている。そこを男に突かれたのが『夏帆』だろう。
『武蔵境のありくい』のテーマは生存競争の過酷さである。夏帆は佐原の純粋な悪意ーーそれは手当たり次第の単なる攻撃であり、正確には悪意ともまた少し違うーーを受けて、存在の芯にまでダメージを受ける。そこから逃げるように引っ越した先で、ありくいという肯定的なイメージに守られながら、今度こそ自分を攻撃してくる存在と正面から対することになる。
ただし悪であるジャガーを殺すことは半ば意識的、半ば無意識的になされる。夏帆はありくいの夫から背中を押されることで殺害をする。つまり自分の手で殺したとも言えるし、そうでないとも言える中途半端な殺害なのだ。夏帆はありくいというイメージの力に守られており、殺しの罪や決断の過酷さから逃れられていると言えるだろう。
こうしたイメージや夢想の力は『夏帆』時点でもある。小説の結末部分で夏帆は絵本をつくり、顔の獲得について自分なりの物語を作り上げる。そうすることで、現実において異性から勝手に自分の顔の価値を決められてしまうという事態に対抗するのだ。夏帆が現実世界の過酷さと対したとき、守ってくれるのが彼女自身の空想の力であるということなのだろう。それは世界という物語と自分という物語の戦いの場面である。
ありくいは夏帆の空想であると同時に土着の神様のような存在である。それは単に夏帆個人の妄想だと言い切れない、世界や土地とゆるやかに結びついているもうひとつの現実である。『武蔵境のありくい』には土地名が多く登場するが、それは土地と、その土地の神様ということを意識しての作劇なのだと思われる。ここらへんは、作者は日本の昔話や伝説などに影響を受けているのかもしれない。
ところで遠くから夏帆やありくいやジャガーの戦いを眺めたとき、ジャガーは悪だと言い切れるだろうか。「責務」という言葉が出てくる。過酷な生存競争を生き延びるためには、弱者は隙あらば強者を殺さなければならない。そうしないと自分が殺されてしまうだろう。生か死か。そのような苛烈な選択においては情けをかける余地はあり得ない。「責務」という言葉にはそういうニュアンスが込められている。しかしこれは強者にとっても同じことで、弱者を食べねば生きてはいけない。ジャガーがありくいを食べるのはジャガーにとっては責務である。ありくいがシロアリを食べるのもありくいにとっては責務だし、シロアリがありくいから逃げたり、食べられても絶滅しないようにたくさん繁殖したりするのも、シロアリにとっては責務であろう。
そういうどうしようもなさ。二つの生命の両立の不可能性こそが、生存競争の本質であるというのが、『武蔵境のありくい』の最大のテーマである。
夏帆は自分の境遇を絵本として起こそうとする。これもまた彼女の防衛本能としての空想である。しかし子供たちには見せられない過酷な話になってしまいそうだと夏帆は考える。それは前述の生存競争の過酷な真理とわかちがたく結びついているからだろう。
本稿はここまでとする。『武蔵境のありくい』についてはもうひとつ記事を書き、より細かいところまで踏み込もうかな、と思っている。