村上春樹の『レキシントンの幽霊』という短編を再読した。それについて書く。

『レキシントンの幽霊』はかなり面白い小説だ。ただ、『武蔵境のありくい』や『かえるくん、東京を救う』のように鋭いテーマやメッセージといったものは何もない作品である。これはあくまでも物語のための物語という風である。村上が得意とする技法が駆使されているが、その技法という乗り物は我々にドライブという体験だけをさせる。それは乗り物に乗ることだけが目的の行為であり、目的地というものを持たないのである。

まずケイシーの家が与えられる。物語を最初から最後まで動かしていく源泉の力はこの家にある。それは古い歴史という特別な力を持った家で、さまざまな先人たちの住んでいた雰囲気を残している。その奇妙な感じこそが小説を駆動する力なのである。

歴史の持つ魔力が事件を起こす。主人公が幽霊たちのパーティーの気配に遭遇するのである。しかしこれは特に意味を持たない。実はこれは物語を駆動するという働きがメインなのである。幽霊事件はケイシーの家の歴史が別の形を取ったものだと言える。

もちろんこの幽霊の事件をケイシーの父親やケイシー自身の持つ悲しみの発露であるという受け取り方を読者がするのは、可能ではある。事実そういう構造になっているだろう。しかし僕の推測では、村上はそういうことをあらかじめ計画して作ってはいない。村上はまずケイシーの家の歴史が持つ暗いパワーのみを念頭に入れて書いた。ただ書いた。そのうち主人公が何らかの形でそれにぶつかるんだろうな、ぐらいのつもりで書いた。それから行き当たりばったりで幽霊のパーティーを書いたに違いないと僕は思う。

小説の最後にケイシーの崩壊と悲劇が語られる。それは「起こった不思議な事件に説明をつける」という役割を持っており、物語にオチをつけてくれる。村上はこういうオチを前もって決めていたわけではないだろう。ただ原稿用紙を順にはじめから埋めていく中で、突発的に考えついたに違いない、というのが僕の推測だ。

以上が作劇のポイントだと思う。ただしこれらの作劇法には大きな前提がある。それが自意識の欠如である。村上は物語を書く上で、まず自我というものを吹き飛ばしてから取りかかっている。それほどまでに村上は純粋な物語を求めている。それは物語であること以外の目的を持たない物語である。

そうした物語を書くには、意識や、こういうことを書きたいという思いを、木っ端微塵に粉砕しなければならない。『レキシントンの幽霊』の作劇には空白ということが大きな前提としてあるのだ。