僕の記憶にきざまれている一文として、次のようなものがある。これはレイモンド・カーヴァーの短編小説である『ささやかだけれど、役に立つこと』の終盤の一文だ。
彼女は三個食べた。
この文の前後の文脈について説明すると、「彼女」というのはこの短編の主人公であるアンという女性のことで、「三個食べた」のはパンである。
アンは幼い息子を交通事故でうしなった。正確には息子が交通事故で入院し、生死の境をさまよう時間がしばらく続いた。そのあいだに何度も予約したケーキを受け取りにくるようパン屋から催促の電話があったのだが、その電話は不親切なかたちでおこなわれた。アンは息子の死後、それに激怒して夫と共に夜中にパン屋まで押しかけたのである。
するとパン屋は自分の蛮行を反省し、謝罪して、その場でパンを提供した。アンはひとしきり泣いた後、そのパンを食べてわずかな慰めを得た。それが上記の一文の示すところである。前後の部分を引用してみよう。
二人はロールパンを食べ、コーヒーを飲んだ。アンは突然空腹を感じた。ロールパンは温かく、甘かった。彼女は三個食べた。パン屋はそれを見て喜んだ。それから彼は話し始めた。彼らは注意深く耳を傾けた。
僕はこの文章が本当に好きで、はっきりと覚えている。だがなぜ自分がこの文章に感動するのか、その理由は長いあいだわからないままだった。ずっと不明なままだった。
しかし最近書いた小説の中で、僕はこのカーヴァーの文章の秘密に接近できた気がする。僕は自分でも無意識の内に『ささやかだけれど、役に立つこと』の文章の味を再現しようとこころみていたのだ。方向性としては80%ぐらい、強度としては35%ぐらい再現できた気がする。「そんなのまだまだじゃないか」と言えば確かにそうなのだが、まったくわからないままでいるよりはずっといいだろう。
では、前述の一文「彼女は三個食べた」の秘密とは何なのか?
それは「物語である」ということだと僕は思う。この一文の文体は、昔話や伝説、神話の文体に近いところがあるのだ。それらの話の中では、登場人物の心理の経過が問われない。「彼女は三個食べた」も同じで、人物の心理ではなく、物語だけを記述している。そこがこの一文の特長なのだ。
思えば、小説というものは登場人物の心理を書くことから離れられない。少なくとも19世紀の小説、たとえば『罪と罰』などが代表例と言えるだろうが、それらは本当に緻密に人物の心理を描いている。この流れは以降も続き、現代の我々が読む普通の小説も人物の心理をかならず書いている。まず人物の心理があって、それが原因としてその人物の行動や発言があり、それによって他者や自分自身が影響を受け、心理が動き、その結果としてさらなる行動がある……というぐあいで小説は成り立っている。
僕はそれをつまらないと思う。正確に言うとすべてを否定するわけではないのだが、それだけに終始する小説は絶対に書きたくないと思う。心理は、なんというか、つまらない。人間の心や感情などくだらない、という思いが僕にはある。それは人間から見た蟻の歩行と同じようなものだ。所詮は些末事であり、注目して執拗に描写するだけの価値はない、というのが僕の価値観である。仏から見たら僕らの心の動きなどきっと蟻の歩行のごとき些末事に過ぎないだろう、というのが僕の考えだ。
言い方を変えたら、歴史的な見方で物事を見て小説を書くべきだ、というのが僕の見方なのかもしれない。普通、歴史の教科書の中に人物の緻密な心理描写は出てこない。歴史の授業でも、たとえば教師が人物の性格や趣向などをあるていど述べることはあるだろうが、精密に心の動きを語るということはないと思う。
ではどうすれば我々は心理を退け、物語を前面に押し出せるのだろうか?
それは、一見矛盾するようだが、まずは人物の心理を書くことだ。普通の小説であるという顔をして、主人公の心理や出来事や行動を書いていく。そこから始める。そして、終盤の肝心な箇所で心理描写をせずに、行動や出来事だけを書くということをする。また、終盤にたどり着くまでのあいだに、無意識に身を沈めていく。無意識の水位を上げる、ということをする。そこに溺れもせず呑まれもせず、制御をおこないつつ意識のレベルを下げて、無意識によって物事や人物が動くようにしていく。
コツとしては、焦点をあわせる、ということだ。ある箇所だけに焦点をあわせて、そこに価値を作り、それ以外の箇所をすべて背景としてあつかう。あくまでも土台に過ぎないものとしてあつかう。また、文体を少しだけ変えるというのがあるだろう。引用した『ささやかだけれど、役に立つこと』の箇所では、カーヴァーは短文を連発するということをしている。そういう具合に意識して文章のかたちを変えるのがいいだろう。