現代において人が人に物を教えることは可能なのだろうか。

僕は最近、ある人からDiscord上でPDFファイルを渡された。小説を書いたので読んでほしいのだと言う。僕はそれを読んで、これはまずい出来だなと思った。アイデアはあるのだが物語に変化がないし、文体も狙いがはっきりしていない。

けれども僕は結局、その人には何も言わないままだと思う。何を悪いと思うのか、どうしてまずいと思うのかという判断基準は僕の内にちゃんとあるのだが、怖くて相手に言うことができない。相手を怒らせたり不機嫌にさせたりするのが怖いのだ。

それで僕は想像してみた。一体彼とどういう関係性にあったら僕はそのことを言うだろうか? それで出てきた答えは、たぶんそういう関係性はもうこの世には存在しないのではないか、ということだった。

仮に僕が彼からお金をもらっていたら、真剣に考えて、小説について教えるだろうか? いや、たぶんそれは無理だろう。もしお金をもらっていたら、僕はサービスマンで、彼はお客様ということになる。お客様に失礼なことはできないので、僕は彼に「これは全然駄目ですよ」とは言えない。伝えるべき一番重要なことは、ともかく全然駄目であるということなのだが、それを伝えることができない。駄目な理由ももちろん教えてしかるべきなのだが、それはあくまでも二番目だ。まず一番に評価が来る。そこはくつがえせない。

では、無償なら教えることは可能だろうか? いや、それも厳しいだろう。なぜなら僕と彼とは他人だからだ。というか、もしも彼が成長してレベルアップしたら、僕と彼はライバルということになる。はたして僕に彼を教える動機があるだろうか。相手を怒らせるというリスクを冒してまでそれをするだけの動機は、どう考えても僕の内にはない。

僕はもう現代においては人が人に物を教える関係というのは成り立たないのだと思う。人ができるのは、教材としてブログ記事を書いたりYoutubeに動画をアップロードしたりすることぐらいだろう。学びたい人は誰にも言われることなく、進んでそれらを見つけて学ぶ。そういう自主的な学習以外には学びというものは成り立たないのではないかと思う。教育は成立しない。学校はもう大学以外は存在する必要がない気がする。教師と生徒という言葉は遠い未来においては死語になっているのではないだろうか。

現代という時代はパワーハラスメントを許容しない。しかし僕は教育というのはパワーハラスメントとセットなのであって、どちらか片方を抜きにすることはできないと思う。とすると、もはや教育を放棄する以外にはないのではないだろうか。

僕は別にこの気風を嘆いていない。別に他人のことはどうでもいいからだ。僕は人のことを見捨てる気である。だから別に自分が人に物を教えることができなくても、特に残念だと思わない。