ここ10年ほどで母性という概念がだいぶ積極的にオタク界のコンテンツで取り上げられている。代表例は『エヴァンゲリオン新劇場版』だろう。

エヴァンゲリオン新劇場版を読み解く

上記の記事で解説しているが、この作品は男性の主人公がまず父性を成長させる。その時点がちょうどミッドポイントであり、劇的に事態が悪化する。彼に本当に求められているのは母性の成長である。最終作ではそれを達成することで実父を倒す。主人公は力ではなく人間性で実父を凌駕することで、負かすというよりは負けを自発的に認めさせて、相手に引き下がってもらう。すると世界が救われるのだ。

もうひとつ見逃せないのは漫画『チェンソーマン』の第一部だろう。ここでは悪と化した母性を主人公が戦って倒している。この作品については次の記事で解説している。悪の母性を倒してそれを食べると、主人公に善い母性の萌芽が宿るのだ。

『チェンソーマン』第一部を読む

現在進行している作品で興味深いのは漫画『ちいかわ』である。今日人から指摘されて気づいたが、この作品には父的人物は出てくる(ヨロイさんなどが相当する)のに、母的人物は出てこない。女の子的人物はわずかにいるが、彼女たちは明らかに子供であって母性を宿していない。また、基調としては性差というものがない。性差は注意深くオミットされている。あまりにもいきすぎた完全なオミットはむずかしいので、妥協案としてカニちゃんなどがいるのだろう。

では『ちいかわ』において母はどこにいるのか?

それは、実は主人公の中にいる。『ちいかわ』は父性と母性の両方を不完全に宿した人物である。彼に求められているのはそれをバランス良く育てることだ。バランス良くというところがポイントだと思う。父性の側のみを大きく育てると、おそらくでかつよ族になってしまうのではないかと僕は予測している。ちいかわは優しさを捨ててはならない。優しさは他者への甘えでもあり、弱さでもあるが、彼がそれを捨てることは倫理的なコースアウトを意味する。古いコンテンツなら主人公がそうした経験をし、いわば暗闇の道を経由してから光の道へ進んで成長していくところだが、『ちいかわ』の場合は主人公に代わってハチワレがそれを経験しそうである。ハチワレは言語をあやつれるし、力を求めている。そこが父性的である。

僕がこの話題について思うのは、男と女の結合の不可能性である。『エヴァンゲリオン新劇場版』において主人公シンジはヒロインのアスカと結ばれない。彼はたったひとりで新しい世界を創生する。これは日本神話に沿ったおこないではないから、僕は寂しく思う。『チェンソーマン』の第一部でも、主人公デンジは別に異性を獲得しない。第二部ではボーイミーツガールの話がおこなわれているようだが、どうも作者は話づくりに難航しているようだ。そして言うまでもなく『ちいかわ』は性差がないので、男女が結合することもない。

僕はこのような不可能性を悲しく思う。男性が母性を身につけるのは現代のなすべき課題なのかもしれないが、それをやってしまうと今度は女性との結合がむずかしくなってしまうようである。