前回の記事では左右関係を俯瞰して述べるということをした。影と鏡像7

ここでは俯瞰という視点からではなく、自分自身の視点から、つまり主観で見たときに左右関係はどう目に映るのかということを述べたい。この記事で述べているのは影と鏡像の理論というよりも、僕自身が小説でこのテーマをあつかう際にはどう書けばいいのかということを述べている。

ポイントは左だ。僕は対象を「左」的な人物ないし事物ととらえて書けばいいのだ。それだけでいい。それだけで物語は進んでいくことだろう。ともかく僕は左ということを意識していればいい。

僕は左右関係で言うところの右である。僕は古事記の男女関係で言うところの男であり、力はあるが愚かで、心に関する知見には乏しい。相手は左である。相手は古事記の男女関係で言うところの女だ。彼女は心に関する知見では僕を上回っている。彼女は大切なことを知っており、僕は知らない。しかも僕は自分が無知であるという自覚さえないのだ。

彼女は僕にとって未知の存在だが、次第に大切なものに思われてくる。なぜ彼女が大切に思われてくるのか、そのメカニズムはわからない。一般的に言えば彼女は美人でもないし特別話が上手いわけでもないから、なぜ僕は相手に惹かれるのかが全然わからないのだ。僕は蟻地獄に巻き込まれる微小な存在のように彼女の引力にとらわれる。それは単なる恋愛関係とも言い切れない。恋愛関係に移行することもあるが、そこのところは本質ではないのだ。

典型的には、たとえば『ノルウェイの森』で見られるように相手は勝手に破滅して離れていく。主人公である僕には一体何が求められているのだろう。僕はこのすべての成り行きが理解できず、深い混乱の中に落とされる。そこは誰も助けにこない「井戸の底」なのだ。

僕がやるべきことは、何とか自力でその井戸の底から這い上がり、すべての成り行きの意味を悟って、より強大な自己に目覚めることである。僕はそれをひとりきりでやり遂げねばならない。協力者はあらわれるだろうし、事実彼らの助けは必要だが、本質的には僕は孤独なままである。僕はひとりきりで成長しなければならない。そこに「左」的人物の助けはない。僕は僕の左の席を空席にしたまま戦っていかなければならない。

はじめは一切が空疎に感じられる。それらの虚無を退けるための武器はただひとつ、自己の中の母性である。母性は傷ついた存在を薄い膜や殻で包み込み、外側からの圧力を防ぎ、内側の対象に滋養を与えて傷をふさぐ力を持つ。僕は自身の母性を発展させていかなければならない。そうすることで自分の負った致命的な傷を治療することができるだろう。母性という力を発展させるためには、自分だけではなく、他の存在に対しても働きかけていかなければならないだろう。実は他者を守ることがそのまま僕自身を治療することにつながっていくからだ。

僕が試練に打ち勝って自己を充分に成長させたとき、再度僕の目の前に左的存在があらわれる。彼女は危地にあり、困っている。僕は今度こそ彼女を守り、救うことができるだろう。ただしそれは恋愛的な関係に発展するとは限らない。

話をさかのぼると、僕は僕自身の試練に向かい合うときに、影や鏡の機構と対することになる。僕は影や鏡について、言語的なレベルではなく、身体のレベルで知恵を得なければならない。たとえば僕の前に傷ついた人がいるとして、僕がその人に対して鏡の役割を果たしてあげることで、彼ないし彼女は自分のありように気づき、傷の位置を見つけて薬をつけたり、あるいは絡まった自己の糸をほぐしていったりするヒントを得ることだろう。