僕は今までに継承というテーマを書いた作品をいくつか見てきた。村上春樹の小説『街とその不確かな壁』、ジブリの映画『君たちはどう生きるか』、ジョン・コナリーの小説『失われたものたちの本』、サトクリフの小説『第九軍団のワシ』、ダレン・シャンの小説『やせっぽちの死刑執行人』などがそうである。パッと思いつくだけでもこれだけあるのだから普遍的なテーマなのだと思う。

しかしこの中で継承というテーマを重要視して正面から取り組み、かつ僕が満足いく成果を出した作品はほとんどない。どうもこれは描くのがむずかしいテーマらしい。

僕の見るところでは継承は物語という巨大な機構の核心にせまるテーマだ。というか、物語とはイコール継承であると言い切ってもいいぐらいだ。この二つは実はほとんど同一視できる。なぜか?

なぜなら物語とは語る者と聴く者がいてはじめて成立する行為だからだ。語る側から聴く側への贈与、受け渡し。それが物語という営為だ。その贈与が継承ということなのである。

もちろん贈与と継承という言葉は同じ意味ではない。継承には責任がともなう。相手の身分や義務をうけついで、それをこなしていくというニュアンスがその言葉には込められている。では物語の責任とは何だろうか? 倫理を語り、善の規範を人々に教えることが役割なのだろうか?

そうではない、と僕は思う。物語というのは言ってみれば既存の倫理に対するカウンターだ。倫理は簡単に硬直する。我々はつねにそれに対して揺さぶりをかけていかなければならない。何が道徳的に正しいか正しくないかということは十年単位で変化していく。それは現代日本を生きている者ならよく知っていることだろう。しかし善とされているもの、正しいとされているものを正面から批判することはしにくい。

そこで物語という婉曲的な構造を持ったものに社会的な位置が与えられる。物語は柔軟である。そこでは本来悪とされている者が主人公になったり、その心の機微が描かれたりする。そういう反社会的なものも飲み込んで許容する力が物語にはある。そういう、言ってみれば懐の深さのようなものを人々の心に植え付け、発展させていくことが物語の役割と言えるかもしれない。

継承をしていく動機については明らかになった。では継承そのものについて我々はもっと論じてみよう。なぜ我々は同じ物語を語ろうとしないのであろうか。なぜ我々は同じ物語を語っていくことで満足せず次々と新しい物語を造っていくのだろう。

実はそこに継承の秘密が隠されている。継承は、実は反抗ということをともなうときにのみ正しくなされるのだ。前世代のものを受け継ぎつつも批判をし、変形させて発展していくときにのみ強い物語は生まれる。ここら辺の構造は次の記事で説明した。

『失われたものたちの本』を読む

したがってすべての物語は二次創作だと言うこともできる。あるいは映像制作の編集行為だと言うこともできるかもしれない。ある部分は採用し、別の部分は採用しないというのが編集だろう。

僕は以上のような構造すべてを話中話として処理していきたいと思っている。そうすることで物語の謎に迫ることができるように思う。