僕は『バートルビー』を再読した。それで思ったのは、前に書いた記事は芯を外した読解になっているな、ということだった。そこで本稿であらためて『バートルビー』を読み解いていく。
『バートルビー』の出発点は書写という作業である。おそらく著者のメルヴィルは書写人という職業を憐れんでいた。書写人は法律文書などの原本を書き写す作業をするが、それはなかなか神経を使う仕事である。一文字も誤らないように注意を払って、字を書くという細かい作業をくりかえしていく。しかもそうやって苦労して生み出すものは単なるコピーに過ぎない。真の価値は原本の方に宿っているのであって、コピーの側にはない。書写は単なる手続きや利便性のためにおこなわれているわけだが、そのていどの価値のものを生み出すのに苦労させられているのが書写人である。そうした在り方に対する憐れみがこの小説の根底にある。登場人物のバートルビーが書写の照合を拒んだり、最終的に書写そのものを拒んだりするのはこういうメルヴィルの憐れみの態度が原因である。その憐れみを語り手は共有しているが、自覚は完全ではない。また、バートルビーは語り手の影である――つまりコピーである――わけだが、それは書写というモチーフが中心にあることから生み出される結果だ。
もうひとつ重要なのがカウンターである。メルヴィルは、人が何らかの心の動きを意識に持つとき、それとは逆の心理がその人の無意識の側に蓄積していくという知見を持っていた。ニュートン力学における作用反作用の法則のようなものが心にもあるわけである。カウンターの話題は序盤から出てくる。次の引用部では白い壁が出てきたかと思うと、すぐに黒い壁が逆の側に出てくる。
さて私の事務所はウォール街某番地の建物の二階にありました。一方の端の窓からは、大きな吹き抜けの側面にあたる白い壁が眺められました。その吹き抜けは建物の下から天辺まで貫いていました。この眺めは、どちらかというと単調で、風景画家が言うところの「生気」を欠いたものかもしれません。ですが、そうだとしても、事務所のもう一方の端からの眺めは、やはりそれ以上のものではないにしても、少なくとも、対照的ではありました。そちらの方の窓から眼の当たりに眺められたのは、長い年月にわたってずっと日陰になっていたことによって黒ずんだ、そびえ立つようなレンガの壁だったのです。
さらに、語り手が雇っているターキーという人物は午前に有能で紳士的だが、かと思いきや午後の人柄はその逆ということになっている。午後が午前のカウンターであるわけだ。話はこれで終わらず、ターキーにはニッパーズという同僚がいて、彼はターキーとは逆に午前が無能で午後が有能となっている。ニッパーズはターキーのカウンターなのである。
以上からわかるのは、著者のメルヴィルは「意識のカウンター現象」を小説内で戯画化しているということである。意識は直接は目には見えないし、無意識は感じることすら困難なものだが、それらを人物として出している。ターキーとニッパーズのどちらか片方が意識でどちらか片方が無意識であるということは言えないが、少なくとも「無意識が意識に対してカウンターをなす」という運動はあるていど戯画化されていると言えるだろう。
ここまでの話をもとに書写という作業に論点を戻すと、それは一つのものが二つに分かれる運動だ、ということが言える。片方が本物で片方がコピーである。これを意識と無意識の作用反作用の法則にあてはめると、まず最初は一つだった心が、何かしらの意志が生じることによって意識と無意識の二つに分かれるということが言えるだろう。意志が意識に宿り、意志とは逆を向いた心理が無意識に生じるのである。小説内の核心の構造はこうした整理ができる。
さて、バートルビーは語り手のカウンターである。バートルビーは語り手の意識に対するカウンターであり、語り手がやりたいと思ったことすべてに反対する。しかし語り手はうまくバートルビーと接続することができず、彼を死なせてしまう。これが話の顛末である。バートルビーは語り手の一部(すなわち影)なので、最初から最後まで彼より離れないのだ。『バートルビー』のオチを読むとき、我々読者は心から切なさを覚える。言い換えれば、この小説においては無意識は意識と接続するべきであるという倫理が底流している。配達不能便が結末に出てくるのは、無意識からのメッセージが意識に届かないという配達不能性のことを言っているのだと我々は理解できる。
ではなぜ我々は無意識に追いやったみずからの気持ちを回収しなければならないのだろうか。よく反省してみるとこの小説内で行われたり言及されたりしている営みはどれも仕事だったり義務だったりする。それらは我々に「正しさ」という力で行動を迫ってくる。正しさは力強く、我々はそれに抵抗できない。仕事や義務を行う背後で、我々人間はいつも個人の嗜好や望みをあきらめざるを得ない。そのような捨てられた自己の望みを、回収もせずに完全に見限るとき、我々は生きた屍と化す。バートルビーは死ぬが、それは我々読者に対する警告なのである。我々はバートルビーを死なせてはならない。それが個人の倫理なのだ。