以前に僕は長篇小説の『アラタ』を発表した。多くの人に読んでほしい作品なので、今日はこの小説を紹介する。

ひとことで言えば『アラタ』は「死にたくなったときに読む小説」である。死にたくなっている気分が何年も続いており、今も混迷のさなかにいるという人に、この小説を読んでほしいと僕は思っている。するといくらか気がまぎれると思う。

僕もだいぶ苦しんだ人間なのだが、人は懊悩が長いあいだ続くと、悩むという行為すらできなくなっていく。体力が減ってしまうと体が動かなくなるように、心も弱ってしまうと感情を動かせなくなる。ただ自分がすっからかんのような気持ちになり、心を動かす主体としての自分の在り方が嫌になってくる。死にたいというほどの思いがなかったとしても、消えたい、隠れたいという気持ちが出てくる。半年ぐらい完全に意識を遮断できないものかな、などと思ったりする。

しばらく耐えていると少しだけ気分が楽になる。そういうときにできる最善の行動は、空想ぐらいのものである。何かよいこと、気持ちのいいことを空想する。理想の野球チームの練習光景を考えてもいいし、素晴らしく美しい異性が自分にかしずいているところを思い浮かべてもいいかもしれない。健康になった自分が春の山を登っているところを想像してもいいだろう。それも気持ちがいい。あまり長続きはしないが、そのような空想をしているあいだはいくらか心が楽になれる。

キューブラー・ロスは自著の『人生は廻る輪のように』の中で、ナチスの手によって強制収容所に入れられた子供たちが、自分たちの死が間近であることをさとり、壁に蝶の絵を描いていたと語る。キューブラー・ロスは若い頃にマイダネックの強制収容所の跡地をたずねて、そこで実際に壁に描かれた蝶の絵を見たのだ。キューブラー・ロスはそれを、子供たちは生まれ変わりを信じていた、あの世を信じていた、と語る。これもまた空想の一種だと僕は思う。変えられない悲劇的な運命に臨むときに、人は少しだけよい現実を夢見るものなのだ。

実は僕が『アラタ』で書いているのはこれである。『アラタ』において、主人公は避けようのない宿命的な苦しみの中にいる。彼女は死刑執行人という立場におり、だいたい年に一回ていど人を自分の手で殺す。主人公は自分が殺人者であるということを受け入れられず、煩悶している。そこに、さまざまな事件を経た結果として、主人公は自分の恋人を処刑しなければならなくなる。彼女は悩むが、結局はその義務を果たす。その結果として主人公は深い苦しみの中でのたうちまわるのだが、そんな彼女にできる最後の手段は空想のみである。

『アラタ』は二部構成の作品で、ここまでが第一部にあたる。第二部は同じ主人公がまた別の事件を経験するのだが、そこで彼女の空想が実際に役に立つ。自分のした空想が自分自身を救ってくれるのだ。そういう希望のようなものを僕は書きたかった。世界中の死にたくなっている人に読んでほしいと思っている。

アラタ(六塔掌月) - カクヨムkakuyomu.jp