『高野書店』の要諦はともかく「羽目を外す」ということだろう。この物語はあるべき規範からどこまでも逸れていく。これが長篇小説なら逸れるだけ逸れたあと正しい道に戻ってくることも可能かもしれないが、一万字という短い小説なのでそういうことは起こらず、物語は最後に線路からきれいに脱線して終わる。
ここで言う「あるべき規範」とは本にまつわることである。我々はふつう書物を知をもたらしてくれる貴いものとしてあつかっている。切り裂くなどもっての外である。そのようなおこないは単なる物体の破壊ではなく、貴重な知への冒涜を意味しているのだ。無為に紙袋を破いたり眼鏡を壊したりするよりも、本を切り裂く行為はより不道徳なものなのだ。
『高野書店』は高笑いしながらそうした倫理を踏みにじっていく。店は小説本を切り裂き、また別の本をそこに接合している。客の男は本に書き込みをするし、店内にはコーヒーの自動販売機が置かれていて、その結果として本がコーヒーで汚れてしまったとしても店側は気にしない。まるでめちゃくちゃだ。これはまるで高価なiPhoneをプレス機で破壊する動画を見ているような心地よさである。禁忌を犯す快楽。それがこの小説の基調としてあるのだ。「やってはいけないこと」をする気持ちよさを、誰もが子供のうちに一度は体験している。
こうした「本にまつわる規範」への冒涜は次第にずれていき、「物語にまつわる規範」への冒涜と化す。キメラ本の朗読である。そこでは典型的な神話が現代的な暴力小説へと強引に変化する。物語の常套から言えばおよそありえない変化だ。しかも後半の暴力小説においては主人公の犯した殺人はいっさい咎められない。これもまた、あるべき規範を冒涜するという全体の方向性と一致している。『高野書店』という物語は円環構造をなして閉じるが、それは非常に奇妙な印象を読者に与える。こうした感情を味わう背景には、「あるべき物語においては主人公は成長や喪失といった大きな変化を経験しなければならない」という正常な倫理観がある。『高野書店』の円環構造はあまりにも無変化であり、主人公は完全に同じ場所に戻っているため、それが読者にはどうにもおかしなことに思えるのだ。これもまた「物語にまつわる規範」への冒涜である。
以上が全体の筋である。次に『高野書店』で用いられている主要なテクニックを解説する。
それは予言と実現の技法だ。この手法はかつて別の記事で解説したが、ここでも再度説明する。予言と実現の技法においては、出来事は二回起こる。一回目が予言であり、二回目が実現である。実現のほうにドラマの力点は置かれる。予言と実現の間には物語の構造的・あるいは性質的な意味あいにおいて距離がある。たとえば入れ子構造の外と内。あるいは抽象的対話と具体的な物語展開といった「距離」である。また、予言の文章は短く、実現の文章は長い。
『高野書店』では主人公が序盤でキメラ本の小説を読んでいるが、このとき彼は文をそのまま読まずに要約をしている。また、地の文で解説している。少し後に美術書でも同じことが起こるが、この二点が予言のパートに当たる。実現のパートはキメラ本の朗読である。そこで主人公は朗読をする。つまり声に出し、そのままキメラ本の文章が立ちあらわれている。こうした形で予言と実現には質的な意味で距離がある。
このとき実現のパートにはまた別の技術が差し込まれている。それが二種類の異なる小説の強引な接合によって生まれるおかしさである。ふりかえってみると『オイディプス王』なども同じ構造ではないだろうか。『オイディプス王』では実現のパートでミステリー劇がおこなわれる。予言と実現の技法は、実現のパートの際にまた別種の技術を加算する形で用いると、非常に大きな効果が生まれるのかもしれない。
他に細かな点を挙げるとすると、サンドウィッチの登場や、夫妻の身なりや、作中作における「複数の木の種類からなる材木でひとつの船を造る計画だった」などの点だろう。いずれも「異なるものが接合される」というキメラ的な構造物の特徴を持っている。こうした一貫性が滑らかな読書体験を読み手にもたらす。『高野書店』の地の文と、二つの作中作の合計三つの小説が、それぞれ微妙に文体が異なっている点などもキメラ的と言える。