僕は新潮文庫でナボコフの『ロリータ』を読んだ。あまり面白くなかった。ただ読むことで考えさせられることがあったので、今回はそれについて書く。

考えたのは『ドン・キホーテ』において典型的であるような、空想に浸りきった主人公像ということである。それはさまざまな小説に顔を出す。たとえばプルーストの『失われた時を求めて』の主人公は、自身の美の感受性の中に浸りきっている。彼は自分の周りにあるすべてを美しい比喩で語ったり、絵画的に描写したりする。あるいは『グレート・ギャツビー』の実質的な主人公であるギャツビーは、かつての恋人との恋愛がもう一度よみがえるに違いないという考えの中に溺れきっており、その空想に殉じて死亡する。『ドン・キホーテ前篇』においては、主人公のドン・キホーテは騎士物語という妄想に取り憑かれているので、周りにあるあらゆるものが騎士物語の登場人物や出来事のように見えるため、旅の道程で珍騒動を引き起こす。

『ドン・キホーテ前篇』の感動的な点は、そのような妄想に取り憑かれた人物がまさに心理的な意味において周囲の人物の救い手として機能し、他者に幸福をもたらすというところである。ドン・キホーテは最後まで妄想に取り憑かれたまま物語を終える。ただし『後篇』においては、そのような『前篇』のドン・キホーテの偉大さを理解できない人物たちに彼は攻撃され、結末において妄想から解き放たれて死ぬ。

一方で『失われた時を求めて』においては、主人公は最後まで空想に取り憑かれ、むしろそれを結末部分で全肯定する。その結果として、彼は作中においては不死身の命を得る。どういうことか。主人公は結末で自分の小説を書くことを決意するのだが、読む側は主人公の書こうとしている作品こそがまさに今読んでいる『失われた時を求めて』に違いないと思わざるを得ないのだ。つまり結末と冒頭がつながる。物語は永遠に循環し、円環となって閉じるのだ。それは終わりのない、すなわち命尽きることない物語なのである。

『ロリータ』はこのようなプルーストの姿勢に対する批判として書かれたというのが僕の印象だ。『失われた時を求めて』においては主人公はあまりにも強烈に自身の空想と結合してしまっている。その結合具合は「癒着」と表現してもいいかもしれない。その二者をナボコフはどうしても引き剥がしたかった。なぜならそのような癒着はナボコフには人としてきわめて不自然なものに思えてならなかったからだ。

そこでナボコフが利用するのがポーである。『ロリータ』の主人公ハンバートにとっての空想は、少年の頃に接した少女のアナベル・リーだ。この名前はポーの詩から取っている。アナベル・リーこそがハンバートにとっての美の化身であり、中年の男になってからの理想的な「過去」だ。ハンバートはこの理想美に取り憑かれて動くが、それは『失われた時を求めて』の主人公が美を求めて動くさまと変わりない。

ただしハンバートがやっているのは明らかに犯罪だ。義理とは言え近親相姦であるし、未成年に手を出している。近親相姦であるという点は重要で、つまりナボコフは婉曲的に、プルーストの描いた主人公の在り方は美とくっつき過ぎていて、まるで近親相姦のようだ、と主張しているのである。ナボコフは小説内でこれらの仲を引き裂く。そしてハンバートを牢獄へと叩き込むのだ。