長い小説を書くためには、それだけの距離を走破するだけのモチベーションが必要になる。作者にとっての興味や関心と言い換えてもいいだろう。作者のもっとも強い関心対象が、文章という車を走らせるガソリンとして機能するのだ。
その関心対象とは、たとえば『書記バートルビー』なら、書写人の仕事だ。作者のメルヴィルはおそらく書写という作業を「面白い」と思った。元となる文章とそっくり同じものを手作業で苦労して書くという運動を観察して、「へぇ」と思った。それをちょっぴり滑稽だなと感じた。元の文章はすでにあるのに、わざわざ苦労して手で一文字ずつ書いて別の紙に写さなければならないことを、なんだかおかしいなと思ったりもした。それによって金銭を得ている人々を目の当たりにして、憐れみを感じることもあった。彼はそういう印象の総体を愛し、尽きせぬ面白さを感じた。メルヴィルはその面白さと一体となって、長い距離を走り抜けたのだ。その跡に残ったのが『書記バートルビー』という小説だろう。
『百年の孤独』の作者にもそういう根源的な興味の対象があった。だからこそガルシア・マルケスはあれだけの長い小説を最後まで書くことができたのだ。ガソリンなしであれだけの距離を走ることなど、到底できることではない。
では、その興味の対象とは何か? 何がガルシア・マルケスをそこまで興奮させ、痺れさせ、惹きつけ、小説の執筆という冒険に連れ出したのか?
それは、本を読むという行為そのものである。彼は本を面白いと思ったのではない。人が本を読むという行為を面白いと思ったのだ。とりわけ、内容の理解が困難な本に取り組む姿勢を面白がった。それは作中ではアウレリャノが羊皮紙の解読に取り組むところに表れている。作者は人々のそういう姿勢に尽きせぬ興味を感じたのだ。なぜか?
それは、きっとガルシア・マルケス自身もたくさんそういう経験をしたからだ。数多くの文学の古典に挑み、内容の理解に時間をかけた。何度もそういう挑戦をし、文学的な感性や技術を培ってきた。それをくりかえしていくうちに、あるとき彼は疲れ切ってしまったのだ。疲れ切って、もう勉強したくないな、とつい思ってしまった。頭の芯が痺れて、無意識の方が考えることや勉強することを拒否した。
すると彼の身のうちに不思議な現象が起きた。頭が痺れ切ってしまい、ほとんど自発的にものを考えることができないのだが、自身の底にわだかまっている記憶が時折意識上に浮かんでくるのだ。それも単発的な、出来事レベルの記憶ではなく、ふわっとした曖昧模糊とした行為の記憶だ。彼は、一体これはなんだろうと初めは思った。次第に、どうやらこれは長い、持続的なことに関する記憶らしいと気づいた。そうした奇妙な記憶の感覚に身を漂わせているうちに、ガルシア・マルケスはそれが何かを、ある日、唐突に悟った。それは、自分の学習という行為の記憶だ。それも、難解な文学の名作や古典に挑んで解読しているときに感じたことの記憶だ。疲れや、解読したときの喜びや驚き、集中力といった感覚だ。
彼はその感覚を「すごく面白い」と思った。難解な文学に取り組んでいる過去の自分自身の姿を心のうちで客観的に眺めて、哀れだな、とか、愛おしいやつだな、とか思った。
これこそがガルシア・マルケスに『百年の孤独』を書かせた原動力である。僕は以上のすべてを何の調査もなしに、エビデンスなしに確信した。今日、唐突にこの文学的古典の核心をつかんだのだ。そう、僕は『百年の孤独』を解読した。僕はマルケスと同じだ。そう思うととても嬉しいし、何だか誇らしい。