僕はここのところずっとザ・ストロークスの曲を聴いている。特に気に入っているのはゴーイング・ショッピングとアダルツ・アー・トーキングだ。彼らの曲をくりかえし聴いているうちに僕の感性や考え方に変化が生じてきたので、それについて書いてみたい。
以前僕は「人間の心は機械である」と書いた。それは間違っていたわけではないと思うが、今では少し捉え方が変わってきている。そもそも心は錯覚で、そんなものは存在しないというのが僕の感じ方になってきた。よくよく反省してみると、僕は以前は「他者の心は機械である」と考えていたらしい。それで「小説を通じて他者の心をどう操作するか」ということを論じていた。
だが最近ではそこらへんが変化しつつあり、自分の心も半分まやかしであるという気がしてきた。自分はないという感じがしてきた。僕は今では平常のままでそう思えるようになりつつある。今の僕は地に足を付けているという気もしなければ、大空を飛んでいるという気もしない。自己が微妙に浮遊しているという感じだ。立っているという状態と浮かんでいるという状態の二つが同時に成り立っている気がする。
これまで僕は、人は心の空白をどう充填すべきかということを中心的なテーマに据えてきた。発表済みの『アラタ』などは特にそうだろう。しかし今となっては僕はあまりそのテーマを問題視していない。そもそも心はないのだから、心がからっぽであるという状態もないという気がしてきている。最初からその問題は存在しなかった。以前の僕はまるで見当違いのところを光で照らし、あるはずのない宝を探していたのだ。
今はなんだか肩の荷が下りた気持ちになった。自分はこれまでずっと馬鹿げたことをしてきたな、と思う。同時に、それが別に悲しくも虚しくもない。空虚さは存在せず、かといって特段晴れやかでもなく、ただ普通だという思いだけが存するのである。
ザ・ストロークスの曲はいい。彼らの曲を聴いていると僕は禅問答に参加しているような思いがする。自分がうっすらと消えていく感じがするのだが、それはアマテラスの岩戸隠れのような悲しみをともなった透明化ではない。自分がなくなることに納得しつつ、半分消えていくような感じがするのだ。それがいかにも楽しいのである。