現代では活字の魔力が消滅したと僕は思う。この場合の活字とは、紙に印刷された文字のことを指す。紙の本や新聞紙から力が失われてしまったと言ってもいい。

活字にはもともと魔力が備わっていた。特にきれいに印刷されて整然と並んだ文字の列には人の心に訴えかける独自の魔力があった。しばらく前は本屋がつぶれたり紙の本の売り上げが減っていくのを嘆く人が目立ったが、あらゆる前提を外して考えてみると、これは実はけっこう不思議なことだ。同じ内容が現代では電子書籍という形で手に入ったり、あるいは情報だけならSNSやニュースサイトで閲覧できたりする。なぜ紙でなくてはならないのかという疑問が今の僕にはある。

かくいう僕も昔は紙の本が好きだった。本が大好きで、子供の頃から足しげく本屋に通っていた。大量の本が並べられた書架を見ると心がワクワクした。この中のどこかに僕のための特別な一冊がきっと眠っているに違いないと思い、書架からその本を掘り当てる作業に専念したものである。

今この「好き」という感情を冷静になって分析してみると、単に面白い文章や物語に出会えることに胸が躍っていたわけではないということがわかる。僕は本を崇敬していた。何か大切な知恵や特別な恩恵をさずけてくれる神さまのようにあつかっていた。たとえば僕は分厚い旧約聖書をひとつ持っているが、これなどはどうしても汚すわけにはいかないとかなりの注意を払って取り扱っている。

そういう独特の呪力が紙の本にはあった。昔は世間の人々のあいだで本はその呪力を思うままにふるっていた。たとえば1983年に出た『広辞苑』の第三版は260万部も売れたらしいが、これなどは本の権威性や人々への支配力を如実に語るできごとだと僕は思う。『広辞苑』は別に面白いものではない。面白さはほぼゼロである。数学の教科書ともまたちょっと毛色が違っていて、頭から順に読んで終わりまでいくと一定の学問が身に付く、というものでもない。憶測だが、『広辞苑』を読破した人はたぶん1万人もいないだろう。なぜこれが売れたかと言えば、やっぱりみんながみんな本を神さまのようにあつかっていたからに他ならないというのが僕の意見だ。特に『広辞苑』の中には「文字のための文字」が大量に並んでいる。「文字の列」という権威性が、それに奉仕する文字の列によってさらに権威づけられている。しかもそれが大量のページを持っているのだ。まさに超呪力である。

現代では『広辞苑』を買うことにあまり意味はない。たいていの言葉はインターネットで(つまりスマートフォンで)調べられるからだ。大きくて重くて持ち運びに向いていない『広辞苑』を買う必要はまったくない。

今や活字の魔力は地に落ちた。みんなスマートフォンの画面を通してSNSやニュースを見て、そこに並んでいる文字を読んでいるうちに、気がついたのだ。文字は紙に書かれている必要はないのだと。さらに言えば、世間の人々は文字そのものに大した価値はなく、それが指す意味が大切なんだということに気がついた。SNSのような流動的なアプリやサービスがその気づきを加速させたという面もあるだろう。

僕はこれは良いことだと思う。現実に本屋は次々と潰れていっている。出版社も早晩潰れていくだろう。でもそれは悪いことではない。人類は活字という呪いから脱したのだ。それは今のITやAIが全盛の時代において適切な事象だ。かつて活字という呪いは僕を縛り、代わりにさまざまな知恵や力を授けてくれた。でもそろそろ束縛が煩わしくなってきた。だからそこから脱することができたのを僕は素直に喜んでいる。