僕はこのあいだ人から「私の書いた小説を読んで感想を言ってほしい」と言われたので、読んでみた。そうしたらその小説は縦書きに組まれたPDFであるにもかかわらず段落冒頭の字下げがなかった。一行二行ではなく、最初から最後までまったくなかった。それだけでなく、数字が漢数字にしてあるべきところが半角のアラビア数字だった。

それで僕は非常に不快だった。ただ、そこを指摘して突き返すのは無礼かもしれないと思って黙っておき、あくまでも小説の内容についてのみ感想を述べるにとどめておいた。

この件とは別に、また他人の書いた小説を読んで感想を言う場面があった。そうしたらその小説は微妙に表現がおかしかった。もうその小説のファイルそのものは僕は手元から削除してしまったので仔細は覚えていないのだが、文章が妙にくどく、しかもそのくどさに特に狙いや効果がないように感じられたのだ。ある知人はそれを「文章の見た目が少し良くないけど中身がよい」というような評をしていた。ちなみに僕はその小説を丁寧かつ婉曲的な言い方で「つまらない」と評したのだが、それを聞いた相手はネットミームのような画像を貼って「自分の言いたいことが相手に伝わらない」と嘆いていた。姿勢がなっていない人だな、と僕は思わざるを得なかった。

この二件を今振り返ってみて僕が思うのは、読者にとって長い文章を読むのは基本的に頭を使うということだ。もっとはっきり言うと苦痛と言ってもいい。これは別に対象の小説に読者が興味がある場合でもあまり変わらない。そうした苦痛を人にお願いしておきながら見た目がなっていないというのは、実は論外ではないかと僕は思った。文章にとって見た目は大切なんだと僕は痛感した。

この場合の「見た目」という言葉は多様なニュアンスを含んでいる。紙の本なら装丁やフォントや組版が大切になってくる。読者がスマートフォンで横書きの小説を見るような場合も、作者は改行の位置や段落の長さに気を使うべきだろう。それに加えて読点の位置や助詞の選択といった微細な点も重要だ。もちろん文末や文長もとても大切になってくる。僕が「見た目」という言葉で言いたいのは、そうした微細な内容に加えて、最低限の状況説明なども含めている。簡潔に言うなら「作者がその物語を通じて何を言いたいか、あるいはどんな心理的な効果を読者に与えたいか」という本質的なもの以外のすべて、というところだろうか。「見た目」はそうした内容を載せる器である。

村上春樹はたぶんここ数十年で、日本で一番見た目に気を使った作家だと思う。彼の作品の中核はほとんど誰にも伝わっていない。しかしとても売れた。村上春樹は再現性のあるヒットメーカーで、いくつもベストセラーを出した。小説は内容も大切だが、それ以上に見た目が大切だ。その心構えを間違えたまま執筆に臨むとろくなことにならない。