『ドン・キホーテ後篇』と『百年の孤独』と『豊饒の海』はいずれも同じ結論を出している小説だ。簡単に言うと「物語というのは中身が空のクッキーの箱だ」というのがこれら三者の主張である。どういうことか。
人は「これはクッキーの入っている箱ですよ」と言われてひとつの箱を渡される。その人は箱を持って歩いているあいだは期待を抱くことができる。ああ、家に帰ったらコーヒーを淹れてからこの箱を開けてクッキーを食べようと楽しみに思いながら道を歩くことができる。家族と分け合って一緒に食べてもいいだろう。期待は膨らみ、素晴らしい空想がなされる。しかし家に帰って蓋を開けてみたら、なんと箱の中身は空だった。クッキーは食べられない。
この箱こそが物語の正体に他ならない。
以上が前述の三つの小説の結論である。この中で一番過激な主張をしているのは三島由紀夫の『豊饒の海』だ。読んでみればわかるが結末部分の衝撃は三作中で最大である。また作者は完成後に自決している。次にこのような虚しい帰結に自覚的な作品は『ドン・キホーテ後篇』だろう。『百年の孤独』は有名作だが物語の虚しさにそこまで自覚的ではない。帰結部分が甘い幻想的な雰囲気に包まれているので読者が受けるショックがそこまで大きくないのだ。
この三作には共通する大きなモチーフがある。読書である。『ドン・キホーテ』は主人公が騎士道物語を読みふけった結果として発狂しているし、『百年の孤独』は終盤で暗号で書かれている本を執拗に読み解こうとする人物が書かれている。『豊饒の海』においては本多繁邦が松枝清顕の夢日記をくりかえし読む。なぜなのか。
ひとつには物語そのものをテーマに据えた小説だからというのがあるだろう。だから作中でも本が出てくる。もうひとつは物語を熱心に読み込んだが結局そこには何もなかったという帰結を最大化したいからだというのがあると思う。特に『百年の孤独』はその狙いが顕著な話運びになっている。
さて、こうした物語の欠陥の立て直しを図った小説がある。村上春樹の『1Q84』がそれである。『1Q84』は簡単に言うと、中身が空である箱にどうやって中身を与えるかということをテーマにした物語だ。
村上春樹はこのテーマに非常に自覚的である。彼は作中でくりかえし卵型の比喩をあつかう。くわしいことは次の記事で解説しているのだが、この比喩の特徴は、空間と時間と善悪の判断がセットになっている点にある。卵型の比喩において、主人公となる者は狭い箱の中に置かれる。彼は時間の経過とともに力を得たり、あるいは奪われたりする。狭い箱が主人公に養分を与え、力を授けていく場合は善の型の比喩であり、逆となる場合は悪の型の比喩と言える。これらは直接的に比喩として表現されることもあれば、婉曲に表現されることもある。
この表現はきわめて暗示力が強く、無意識に働きかける効果が高い。この表現のくりかえしの中で主人公は、ひいては読者は自分という箱の中身に呼吸を与えていく。死んでいたはずの願いは息を吹き返しふたたび力を得る。それも以前よりも強くしなやかな弾力を獲得するのだ。
なお『1Q84』は前述の三作の流れを受け継ぐかのように本を読むというモチーフを変形して登場させている。主人公の天吾は「空気さなぎ」という不思議な物語を読み、依頼を受けてそれをもっと現代的な文体で書き直すのだ。つまりそこでは「読む」という行為から始まって「書く」という行為がなされている。最終的に天吾は自分の考えた小説を新たに書き始める。これもまた中身の復活、すなわち願いの発露というテーマに接続している。