ずいぶんと長く書き続けてきたが、僕のブログは全然人に読まれない。このことからおのずとわかってきたことがある。

それは物語を解釈するのはむずかしいということだ。それも自分なりに解釈しようとか、自由な感想を言うという体ではなく、これが唯一の正解だという体で物語を理解するのはむずかしい。そういうやり方で物語の理解に取り組んでいる人はこの世にほとんどいない。そもそもそういうことが可能なのだという認識を持っている人が皆無に近い。僕は文学研究に接した経験はほとんどないのだが、おそらくいずれも「こういう物の見方もある」という形での研究なのだろう。

物語を面白がるのはハードルが低い。厳密に言えば面白がり方にも巧拙はあるのだが、やはり物語を面白いと思うのは簡単なことだと言える。その一方で物語の面白さの背後に潜む構造を理解するのは非常にむずかしい。

次に例を示そう。

村上春樹の書いた『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という小説がある。次に引用したのは序盤に出てくる文章だ。

 彼はその時期を夢遊病者として、あるいは自分が死んでいることにまだ気づいていない死者として生きた。日が昇ると目覚め、歯を磨き、手近にある服を身につけ、電車に乗って大学に行き、クラスでノートを取った。強風に襲われた人が街灯にしがみつくみたいに、彼はただ目の前にあるタイムテーブルに従って動いた。用事のない限り誰とも口をきかず、一人暮らしの部屋に戻ると床に座り、壁にもたれて死について、あるいは生の欠落について思いを巡らせた。彼の前には暗い淵が大きな口を開け、地球の芯にまでまっすぐ通じていた。そこに見えるのは堅い雲となって渦巻く虚無であり、聞こえるのは鼓膜を圧迫する深い沈黙だった。
 死について考えないときは、まったく何についても考えなかった。何についても考えないことは、さしてむずかしいことではなかった。新聞も読まず、音楽も聴かず、性欲さえ感じなかった。世間で起こっていることは、彼にとって何の意味も持たなかった。部屋に閉じこもっているのに疲れると、外に出てあてもなく近所を散歩した。あるいは駅に行ってベンチに座り、電車の発着をいつまでも眺めた。

注目してほしいのは文末である。よく見ると上記の文章はすべて文末が「た」で締められている。この小説はともかく「た」で終わることが多い作品なのだ。長いあいだに渡って「た」を連打した後で、作者は終盤のクライマックスで次のような文章を置く。

 そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繫がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。

作者は重要なところでここぞとばかりに「だ」を三つも繰り出してくる。実はこれをやられると読者はまいってしまうのである。驚きとともに心を打たれてしまうのだ。読者は意識上では文章の内容に焦点をあわせる。意味内容がよいから俺は感動しているのだと自分では思い込んでいる。しかし本当はそれだけではない。無意識下では突如繰り出された「だ」の連打に驚いているのだ。読者は意識と無意識の両方を攻められると大きく感動してしまうものなのである。

こうした手法はめずらしくなく、類似の技術を三島由紀夫の『金閣寺』でも見ることができる。『金閣寺』という小説は基調として長文ばかりで構成されているのだが、終盤のクライマックスにおいて短文が連打されるのだ。これをやられるとやはり読者はまいってしまう。ついつい心が躍ってしまうのだ。

他にも『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』から例を出す。終盤の次の文章について説明しよう。

 彼は車の中に置いたショルダーバッグからそれを取り出し、彼女に渡した。エリに柘植の髪留め、子供たちに日本の絵本。
「ありがとう、つくるくん」とエリは言った。「君は昔から変わらない。いつも優しかった」
「そんなにたいしたものじゃないけど」とつくるは言った。そしてそれを買った夕方に、男と二人で表参道を歩いている沙羅の姿を見かけたことを思い出した。もしプレゼントを買おうと思いつかなければ、そんな光景を目にすることもなかったのだ。不思議なものだ。

この箇所の最後に置かれた「不思議なものだ」は小説にしばしば登場する「とぼけ」のテクニックである。実際に言いたいことはその逆なのだ。「これは不思議なことではなく論理にしたがった当然の帰結だ」ということを作者は言いたいのだ。すなわち「沙羅が男と一緒にいるのを見かけることになったのは、自分がクロにプレゼントを買いに行ったからだ」ということが真実言いたいことの内容ということになる。

これは一見すると無茶な因果関係である。だがこれこそが村上春樹が伝えようとしている真理に他ならない。ここら辺の機微は次の記事に詳しく書いておいたので、深く知りたい人はそちらを参照してもらいたい。

因果関係というテーマ

ただ僕がここで言いたいのは、上記のような因果関係の真理の開陳は、小説の前半に置かれた灰田の父親と緑川という人物の対話が伏線となっているということだ。「その話を追求していくには、もっとはっきりした具体例が必要になります」と青年だった頃の灰田の父親が言っているが、実はここで言われている「具体例」こそがつくるたちの体験した事件であって、彼らの議論している「論理」こそが、僕が前述した不思議な因果関係に他ならない。

実はこのような話運びは予言と実現の構造にぴたりと合致する。予言と実現の構造の理論については次の記事で詳しく説明しているが、なんにせよここで大切なのは、ちゃんと強力な構造が作品の裏側で駆動しているということである。

予言と実現の技法

以上のように僕は小説の面白さの構造を理路整然と説明することができる。しかし誰もそんなことには興味がないようだ。だから誰もこのブログを読まない。きっと物語の構造を理解することはむずかしいことなのだろう。

では、なぜ物語の構造を理解するのはむずかしいのだろうか?

これにはいくつか理由がある。まず表面的には何が起きているかわかるというのがある。作中の事実レベルでは何が起きているかわかるので、自分が実は盲目であるということに思いが至らない読者が多いというのがあるだろう。

次に物語の構造説明には明白な根拠がないというのがある。エビデンスがない。絶対の正しさを他者に向けて理屈で証明できない。「証明不可能だが正しい真理」がこの世には存在するのだということを理解できない人がいる。世間は頭の悪い人が多数派だ、と言い換えてもいいだろう。

だが何よりも大きい要因は「面白かった」という思いが構造の理解の邪魔をするということだ。自分はサーブされたという意識が理屈による説明を拒むのだ。基本的に物語の読者は、無意識のうちに作者や物語を自分より下に見ている。自分は下の立場の者にサーブしてもらっているのだと思っている。もちろんそうした意識そのものは別に間違いというわけではない。事実として物語の作者は読者よりも立場が下だ。それは明白な真理である。

問題は、物語を読み終えてからしばらく経っても興奮を脇に置いて冷静に考えるということができない点にある。なぜか。それはおそらく、自分より立場が下の者が自分よりも賢いという事実に多くの人は耐えられないからだろう。人は他者を賢いと認めるのに強い抵抗感を抱く。ノーベル化学賞を受賞した人なら認めてやってもいいが、自分が面白いと思った物語およびその作者が知恵の塊であるということを認めるのは癪なのだ。それは召し使いの方が自分より頭がいいということを認められないのとどこか似ている。