デウス・エクス・マキナ、すなわちそれを出しさえすれば一挙に物語が解決する装置として、主人公の自己犠牲というものがある。自己犠牲は主人公がクライマックスで放つ最終兵器であり、それによってすべての困難が解決される。最後に事態は打開され、仇敵は倒れ、試練は終わり、物語は大団円へと進んでいくだろう。
ある種の典型的な物語構成について語ると、まず主人公には悩ましいふたつの選択肢が与えられる。ひとつは犠牲を払わなくて済む安易な道、もうひとつはこれだけは選び取りたくなかったという、困難で、みずからの犠牲を払うことが避けられない道である。主人公ははじめ安易な道を選んで進み、ミッドポイントで行き詰まり、苦悩の果てに困難な道を選ぶ。その決意と行動の瞬間がセカンド・ターニングポイントである。主人公の決断によって、物語は事態のすべてを解決へと向かわせるだろう。これが典型的な物語構成というべきものだ。
ところがこのようなデウス・エクス・マキナとしての自己犠牲は、いまや過去のものになりつつあるというのが僕の見解だ。現在の数少ない物語が、デウス・エクス・マキナとして慈悲を採用する方向に舵をとっている。
たとえば漫画『BECK』では、壊れたものや未完成のものを引き取ってあるべきものに直すということによって、主人公たちのバンドは成長する。また、主人公たちを散々苦しめた宿敵の蘭は、主人公から贈り物を与えられた上で、罪を赦される。これらは慈悲という力の働きに他ならない。
映画『エヴァンゲリオン新劇場版』ではこうした方向性がより顕著である。主人公は父親との殴り合いのさなかで、みずから戦いをやめて話し合いをもちかける。すると父親は心を開いて、世界を崩壊させるまでにいたった経緯と、それを願った自身の弱さを物語るのだ。これは主人公の人間性、とくに母性を獲得した心の大きさによって成し得た業である。彼は父親の弱さを端的に指摘するが、これは弾劾であると同時に赦しでもある。これにより父親は舞台から退場していく。やはりこの物語も、主人公の持つ一番の武器は慈悲なのである。
僕はこうした方向性をさらに磨いていくつもりだ。すなわち自分のつくる物語の主人公に慈悲・慈愛・母性の三つを身につけさせるつもりである。
それでは慈悲・慈愛・母性とは何であるか?
これらのうちもっとも基礎にある心の働きが母性である。人は母性をもちいると反対のものを自身に統合できる。それは自身の影の正体を見抜く知恵と表裏一体である。知恵は謙虚であることによってのみ人に備わる。自身の無力を骨の髄まで知り、弱さという意味においては他者と自分に差異がないことを理解するということが、ここで言うところの知恵なのである。それは影の人物にも自分と同じ弱さや悪が備わっていることを悟るということに他ならない。影との共通項を知悉すれば、それを起点にして影を自身に統合できる。このような知恵にゆとりを与え、力を授けてより頑丈にしたものが母性であると受け取れる。
慈悲とは、母性を身につけた者が自然と発する、他者への憐れみの心である。それは自身の影とは関係なく、みじめな者、言い換えればすべての無力の者やあらゆる罪ある者に向けられる。慈悲があるということは、苦悩している者が目の前にあるとき、相手の苦悩を知り、自分もその人と同じように心から悲しむということに他ならない。母性や慈悲にはエゴが介在しない。しかし同時に、それらは相手に対する具体的な施しも意味しないのである。
最後に慈愛について述べる。慈愛は三位一体のトライアングルの最高点にある心の動きである。ここにおいて行使者のエゴは復活する。慈愛は行使者の自己犠牲によっておこなわれる。それは対象に対する具体的な施しであり、救いである。それは相手を滅することや、事態を打開することや、自己の成長とは無縁のことである。ただ愛によって相手を危地から救うということが慈愛なのである。
慈愛には倫理観が随伴する。慈愛は、理想的には行使者のエゴと無関係に、倫理的に正しい者を救うべきであるが、現実にはできない。なぜなら行使者は人間であって、仏ではないからだ。したがって実際の物語においては、慈愛の行使にあたって主人公の私情というのは避けられないであろう。慈愛はエゴを前提とした、自己犠牲という、一種の魔法によってのみ発動するのである。
僕の実感では、慈悲をデウス・エクス・マキナとした物語はいまや相当にある。しかし慈愛を語った話はあまりないのではないか。だとしたらそれを存分に書きさえすれば、ヒットに繋がるのではないかという気がする。
今回の話はここまでである。それにしても例に出した作品が漫画とアニメであることに僕は戦慄を覚える。以前にも述べたが、もう小説はエンタメだけでなく文学においても漫画やアニメに負けているのかもしれない。それは僕にとって少し残念なことである。