ミゲル・デ・セルバンテスの最大の功績は、「物語は物語をテーマにするときに最大の力を発揮する」という定理を唱え、実証した点にある。その実証作が『ドン・キホーテ前篇』である。僕はそう考えている。しかし気になるのは、なぜそのような定理が成り立つのか、というところである。

ここで言う「物語」とは、フィクションの小説や漫画、あるいは映画などのことを指す。定義をより広くとれば、たとえば貨幣のシステムなども一種の物語として扱うことができるだろうが、今回はそれは扱わない。

さて、このような物語は現実の対立項としてある。現実はつねに人に厳しく、そっけない。それはあまりにも「そのまま」であり、死を初めとしてどのような不幸でも人に押し付けてくるところがある。そこから逃れることは誰にもできない。

このような現実を砂糖でコーティングし、人が飲み込みやすくするために物語はある。そこでは不思議な力が働く。助力者が主人公を助けてくれるし、どんなに弱く見えても主人公は最終的に苦難に打ち克つ。悪は滅び、善は栄える。果たされなかった望みが空想の中で叶えられるのだ。

言ってみればこのような物語はすべて嘘である。現実と対立させて語るとき、物語は必ず負けざるを得ない。そこに約束されているのは必然の敗北である。

しかしそれでも人は物語を信じようとする。人は明らかに嘘だと分かっている物語をも信じ、楽しむことができる。これもまたひとつの現実である。つまり一般的な現実をベースにするのではなく、この「信じる」という人の姿勢にのみ焦点を合わせ、そこをベースにして物語を語りさえすれば、物語は現実に負けない真実となる。通常の物語は現実というアンチ物語を礎石としている以上、終わりと共にいつでも崩れ去る砂上の楼閣であるのに対して、このような本物の礎石をベースにしている物語は永遠に崩れない。それは人類が続く限りずっと咲き続ける本物の花となるのだ。

ただしこのような語りの方法には、さまざまな困難がつきまとうであろう。例えば、前提としている「人は物語を信じる」というのも、場合によっては怪しいものである。物語を信じるのには物語を信じるための精神の働きが必要とされる。そのメカニズムを解明し、もし読者のそのような精神の働きが貧しいのであれば、補強してやる必要があるだろう。

あるいは次のようなことも言えるかもしれない。『ドン・キホーテ前篇』ではドン・キホーテの愚者的働きによりさまざまな男女の登場人物がめでたく成婚するが、本当に重要なのは、成婚というめでたい結果なしでも、人が物語を信じる姿勢を失わないことではないだろうか。そう考えると、我々はドン・キホーテよりも高い精神の地点を目指せるということがおぼろげに見えてくる。