村上春樹の書く小説に対して多くの人々が次のような感覚を抱いている。すなわち作者が物事を明言せず、結論を書かずにぼんやりとした形のまま話を置いている、と彼らは思っている。

僕の考えではこれは間違った認識だ。村上春樹は作中の問いの多くに対して明確な答えを用意している。何が正しく何が間違っているかがはっきりしている問いを、彼は書いている。かつ、答えのヒントを作中に明示している。この記事では具体的に村上春樹の小説内の問いを取り上げ、それへの答えを書く。

たとえば『ノルウェイの森』では最後に主人公は「僕は今どこにいるのだ?」と問う。この問いには実は明快な答えがある。このとき主人公は「井戸の底」にいるのだ。もちろんこれは比喩だが、正しいと言える根拠がある。

まず作品の冒頭で直子の口から不吉な井戸の存在が語られている。草原のどこかに危険な井戸があり、その穴に落ち込んでしまった人は二度と這い上がれず、少しずつ弱っていって死んでしまうという話だ。物語全体をよく反省してみるとこの挿話は作品のどこにも接続していないように見える。だがそれは表面的にそう見えるというだけであって、実は伏線として機能しており、結末部分につながっているのである。

もう少し詳しく議論を進めよう。『ノルウェイの森』では「あるものが別のものを内に含む」という構造が所々で顔を見せる。たとえば講談社文庫版の上巻のP279において急な坂道をレイコと直子と主人公が登っていく様子がえがかれているが、このとき彼らは弱い存在である直子を真ん中に置いている。言い換えるとレイコと主人公が外側に立ち、内側に直子が立っている。もっと分かりやすい場面はその少し前のP233で、「僕はその光を両手で覆ってしっかりと守ってやりたかった」とある。また「僕」は緑に対して「僕の時間を少しあげて、その中で君を眠らせてあげたいくらいのものだよ」と言う。

こうした包含関係の構造の話の延長として「僕」が寮の屋上で螢を瓶から放すというのがある。これは直子の死を予兆する挿話だ。つまり瓶は直子の肉体、螢が魂を指している。いずれ直子は死んで魂が体から離れていくのである。ここまで振り返ってみると『ノルウェイの森』には至るところで包含関係が顔を出すというのが納得できるだろう。

さて、話を井戸の方に戻そう。もしも主人公が「僕は今どこにいるのだ?」と言う場面で井戸の底にいるのだとしたら、彼は井戸という容器の内側に含まれていることになるので、話が包含関係の構造につながるのがわかるだろう。主人公はキズキと直子を通じて死の世界へと踏み込んでいくのだが、長くそこに留まりすぎた結果として抜け出せなくなってしまうのだ。つまり周囲が現実の世界、そして中心が異界という構図の中で、「僕」はその中心にはまりこんでしまい、脱出が不可能な状態におちいってしまうのである。

ここまでわかると小説の最後の一文もよく理解されてくると思う。「僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。」とあるが、「どこでもない場所」とは死に近い異界、赤色の世界を指している。その周囲に現実界、つまり緑色の世界があるのだが、彼はそこに這い上がっていくことができないのだ。本の表紙を見ればわかるようにこの作品にはそもそも緑と赤という色の対立構造がある。これは緑が生命で、赤が死に属するという対立構造なのである。もっとも、それも実は「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という形で結局は包含関係に属する。

より詳しい理屈は次の記事に書いておいたので、ご参照いただきたい。何にせよ『ノルウェイの森』の結末部分は説明可能であるというのがわかると思う。

『ノルウェイの森』を読む

次は『海辺のカフカ』を取り上げよう。作品の終盤に次のような箇所がある。

「あなたは僕のお母さんなんですか?」、僕はやっとそう尋ねる。
「その答えはあなたにはもうわかっているはずよ」と佐伯さんは言う。
 そう、僕にはその答えはわかっている。でも僕にも彼女にも、それを言葉にすることはできない。言葉にすれば、その答えは意味を失ってしまうことになる。

はたして佐伯さんはカフカ少年の母親なのだろうか? これは僕にははっきりと答えが出せる問いだ。正解は否である。つまり佐伯さんはカフカ少年の母親ではない。ここで重要なのは、村上春樹は別に答えをはっきりと示さずに曖昧にしているわけではないということだ。彼は正解のヒントをしっかりと書いている。これは考えれば誰でもわかるようになっている問いなのだ。

その前に把握すべきなのは『海辺のカフカ』におけるメタファーとは何かということだ。この作品特有のメタファーの性質が理解できていればおのずと答えは出る。『海辺のカフカ』流のメタファーは次のような性質を持つ。

  • 主体がメタファーを作る。
  • 特に主体が他者を巻き込んでメタファーを作る。
  • 主体の記憶、とりわけ解決されていない課題となっている記憶がメタファーの原因であり、他者は<喩えるもの>、記憶が<喩えられるもの>として機能する。
  • 主体は他者を通じて自己の解決されていない課題に取り組むことができる。

まず前提として主体が規定されていなければならない。「誰が」そのメタファーを見るか・体験するかが肝要であって、主体を離れた客観的なものとしてメタファーが存在することはない。次にこのことを説明した箇所を引用しよう。ホシノ青年とナカタさんの会話である。

 青年は首を振った。「いいんだよ、これくらいのもの。俺な、うちのじいちゃんにはずいぶん借りがあるんだ。昔、グレてたころ」
「はい。しかしナカタはホシノさんのじいちゃんではありません」
「それは俺っちの問題だから、あんたが気にすることじゃない。うるせえこといわずに、黙ってゴチになってりゃいいんだ」
 ナカタさんは少し考えてから、青年の好意を受けることにした。

ホシノ青年はメタファーを用いることで、ナカタさんを通じて祖父を見ている。さらに上記の文章はメタファーの発生原因についても述べている。「じいちゃんに借りがある」という自責の念がそれだ。つまり主体の側にメタファーの原因が付着していると言える。

ホシノ青年の場合は、「じいちゃんに借りがある」ので、ナカタさんが祖父に見える。カフカ少年においては、母親に捨てられたことで傷ついたので、佐伯さんが母に思える。このように主体があえて積極的に現実の物や人間を「喩えるもの」とみなして、そこに「喩えられるもの」を結びつける操作をおこなうこと。そしてその「喩えられるもの」は主体の古い記憶から引っ張り出されてきた解決されていない切実な何かであること。それが『海辺のカフカ』流のメタファーなのである。

以上のことからわかるのは、佐伯さんはメタファーの魔法の上においてはカフカ少年の母親であるということだ。言い換えれば事実レベルにおいては佐伯さんはカフカ少年の母親ではない。もし事実レベルでも佐伯さんがカフカ少年の母親なら、むしろ作品の中心的な仕掛けであるメタファーは機能しなくなってしまうので、作品は根底から崩壊してしまう。そういう微妙なニュアンスが、すでに引用した「あなたは僕のお母さんなんですか?」から始まるやり取りにはある。

より詳しいことは次の記事に書いておいたので、参照してほしい。

『海辺のカフカ』におけるメタファーの性質

以上である。この記事で取り上げたのは二例だが、村上作品には他にもさまざまな「正解」がある。こういう形でしか読解できない、他の解釈はありえないという形での正解だ。あなたは本ブログを読み解くことでそうした答えを理解できるようになるだろう。