自作の中編小説『真子と鏡』について述べる。本稿はすでに同作を読み終えた者を対象にした記事になっている。

小説『真子と鏡』を発表しました

『真子と鏡』の直接の祖先はホフマンの『大晦日の夜の冒険』である。これは主人公の男性が悪魔によって鏡像を奪われる事件を描いた小説だ。光文社古典新訳文庫の『砂男/クレスペル顧問官』という本に収録されている。『大晦日の夜の冒険』は枠物語になっており、枠の外側の人物であるエラスムス・シュピークヘルの書いた手記を主人公が読む、という形で枠の内側が物語られる。実質的な物語はこの手記の内容であるから、本当の主人公はシュピークヘルだと言える。

あらすじとしては、シュピークヘルには妻子があるのだが、彼は異国の地イタリアで女性ジュリエッタに出会って恋に落ちる。事件が起き、避けられない事情によってシュピークヘルはイタリアを離れることになるのだが、そこでジュリエッタは「あなたがいないと寂しいのでせめて鏡像だけでも残していってほしい」と彼に懇願する。シュピークヘルはそれを受け入れ、鏡像を奪われる。シュピークヘルは鏡に写らないことで、多くの人に軽蔑されたり、警察から通告を受けたりしながら、母国にある家に帰る。すると子供が父親のシュピークヘルが鏡に写らないことを発見して自分の母親に知らせる。その結果シュピークヘルの妻は夫を憎んで罵り、悪魔とまで言う。

その後ジュリエッタに近しい医師ダペルトゥットォがシュピークヘルの下へやってくる。ダペルトゥットォは毒薬をシュピークヘルに渡し、それで妻子を殺せとそそのかす。そうすればシュピークヘルはふたたびジュリエッタに会えるのだと言う。シュピークヘルはそれを拒むが、するとダペルトゥットォは悪魔の正体をあらわし、契約書に血で署名をして、妻子を引き渡すようにと迫る。すんでのところでシュピークヘルの妻があらわれて夫にやめてくれと懇願し、シュピークヘルは勇気を出して悪魔の誘いを拒否する。それでダペルトゥットォは引き下がって消えるのだが、翌朝シュピークヘルは妻から「鏡像がないと一人前の家長とは呼べないので、悪魔から鏡像を取り戻してきてください」と言われる。しかし結局シュピークヘルは鏡像は取り戻せなかった。そういう結末でこの小説は終わっている。

『真子と鏡』も同様に主人公が鏡像を失う事件を書いている。僕は『大晦日の夜の冒険』から刺激を受けてこの物語を作った。

実は影や鏡像というのは文学における一大潮流であり、連綿とさまざまな小説の中で語られ続けられてきたという歴史的経緯がある。本ブログではタグ「影と鏡像」の記事においてそれらをくりかえし考察してきた。今回はそれらの考察で得られた成果を踏まえた上で、自作の『真子と鏡』を解説する。

影と鏡像というテーマでどこまで文学の歴史をさかのぼれるのか、僕は正確なところを知らない。ただ少なくともシャミッソーの小説『影をなくした男』にはかなりの影響力がある。『影をなくした男』は文字通り悪魔によって影を奪われてしまった男の話なのだが、主人公がそのままの名前で『大晦日の夜の冒険』にも登場する。つまり『大晦日の夜の冒険』は『影をなくした男』の変奏なのだ。またアンデルセンの『影』も『影をなくした男』の影響下にある。

『影をなくした男』においても『影』においても影は主人公から分離する。また結末は否定的なものであり、主人公は自分の影を取り戻せない。『大晦日の夜の冒険』も似たようなものであり、鏡像が主人公から分離して、元に戻らないまま終わってしまう。言い換えるとこれらの作品は課題を提起しているものの、その解決は提示しないままである。

僕は自分なりにこれらの作品の課題を研究して解決策を探り、それを『真子と鏡』で表現したつもりだ。たとえば『真子と鏡』の結末においては主人公は自分の鏡像を取り戻す。つまり肯定的な終わり方をしている。

さて、ここから先は過去の「影と鏡像」文学にどのような特徴があるかを述べつつ、主人公の持つ課題の解決方法を探究していく。

前述の三作――『影をなくした男』、『大晦日の夜の冒険』、『影』――の最大の特徴は、影や鏡像の正体が不明であるということだ。それらが何を示しているのかは最後まで明らかにされない。したがって主人公の陥っている苦境も、冷静になって振り返ってみると、実はよく分からないままである。ただ差し迫った切実さのみを読者は体感する。であるならば、僕らはまず影や鏡像の正体を明かさなくてはならない。

ここでひとまず一般的な文学の構造に立ち返ってみると、主人公の引き裂かれということがある。『金閣寺』の主人公は、美に陶酔している自分と、美と一体化できない自分とに引き裂かれている。『ロング・グッドバイ』においては探偵マーロウは、自分の利を取る生き方と、自己犠牲を遂行する生き方の二つに引き裂かれている。『クララとお日さま』においては主人公のクララはジョジーの代理として母親のために生き続ける道が用意されているため、クララは「ジョジーを犠牲にして自分が生き残るか」、それとも「自分を犠牲にしてジョジーを生き延びさせるか」という二つの道に引き裂かれていると言える。

多くの文学作品が主人公にこのような二者択一を迫る。もちろんどちらか一方が間違った道で、もう一方が正しい道なのだ。主人公は片方を滅ぼし、もう一方を選び取る。『金閣寺』の主人公は金閣寺を焼く。『ロング・グッドバイ』のマーロウは親友であったテリー・レノックスをしたたかに拒否する。『クララとお日さま』のクララはジョジーを取るために自己を犠牲にする。そうすることで物語は正しい結末へといたる。

しかし影と鏡像が立ちあらわれるタイプの文学作品においては、主人公の引き裂かれの本質は上記とは真逆になっている。この種の作品における主人公は自分と影(または鏡像)の二つに引き裂かれながらも、一方を滅ぼすことではなく、二者を融合させることを求められる。影や鏡像は自己に属する何か大切なことなので、殺してはならないのだ。むしろそれをふたたび自分のものにすることがここでは求められている。

このような混乱した引き裂かれは、欲望と倫理の二項対立が根底にある。それが読み取れるもっとも典型的な小説はポーの『ウィリアム・ウィルソン』だ。この小説において主人公は自分自身と姿と名前がそっくりの存在に悩まされる。すなわち、この作品では主人公にそっくりの存在が鏡像だとみなせる。物語が進んでいくと主人公はどんどん道を踏み外していき道徳的に堕落していくのだが、それをもうひとりのウィリアム・ウィルソンが阻んでくる。主人公は最後にもうひとりの自分を殺すのだが、もうひとりの自分は死に際に主人公の道徳的破滅を宣言し、小説の幕を閉じる。この小説においては主人公が欲望を体現し、もうひとりの自分が倫理を体現しているのである。

他に欲望と倫理の相克の構図が分かる小説としては、村上春樹の『かえるくん、東京を救う』がある。ここでは地震を引き起こすミミズが主人公の欲望(怒り)を体現しており、カエルが主人公の倫理を体現していると言える。これら二つが主人公の影なのである。主人公はそれらを統合するのではなく争わせてしまったために、ひどく苦しむ結末にいたったのだと理解できる。

以上のことからまず分かるのは、主人公に求められている力は切断ではなく結合ということだ。『真子と鏡』において主人公は第一文で切断されること――自身にくっついていた鏡像が切り離されること――を体験するが、彼女は最終的に奪われた鏡像を取り戻して自身に結合させる。『真子と鏡』を可能な限り短く要約すると、「二つに割れたものがまたひとつにくっつく」ということになるだろう。

破壊され、砕かれたものが修復され、またひとつに接合される。このような現象が起こる背景には母性原理がある。

主人公の真子に母性原理を示唆するのはネイルサロンの主の敦子である。敦子は結婚しており子供もいる。彼女は着飾ることを真子に教える。もともと真子は鏡像の喪失によって自分を「見る」能力を失っていたのが、ネイルアートによって部分的にその能力を復活させている。真子は自身の顔を見ることはできないが、指先なら全容が見られるのだ。そのような加護を敦子から受けたことが、終盤での物語展開に寄与してくる。

見るということは不思議である。それは父性原理が支配的であるときは、まなざす対象を自身の「外」に置こうとする。つまりは切断の機能を果たす。しかし母性原理が上回れば、まなざす対象は自身の瞳の「中」に収まる。対象は自分という箱の中に入り、自身の一部となる。よくよく考えてみると着飾った自分を見ることは母性原理の発展に寄与すると言えるかもしれない。真子が敦子から受けたのはそのような教えである。物語の終盤において真子は成長した証として、自分の指のいくつかを切り取られたまま――切断された状態のまま――ブラックハットの女の要求を達成する。つまり真子は敦子の加護が失われたまま、自分だけの力で試練に打ち勝つのだ。

ブラックハットの女が真子に要求したのは、自分を絵に描くことである。ここでも見ることが重要な働きを成す。対象を見なければ絵には描けない。言い換えれば真子は自分の顔を絵に描くことで――よく見ることによって――対象となった鏡像を自分の内に取り込んでいるのだと言える。それが最終的に鏡像の奪還につながっていく。

化粧が小説の中心的なモチーフとして取り上げられているのは、異性との結合というテーマと関連がある。『影をなくした男』、『大晦日の夜の冒険』、『影』の三作ではいずれも男性の主人公に対して女性のヒロインが登場するが、三作とも主人公は結合に失敗して終わっている。結合というテーマは異性というテーマと密接に関連しているので、どうしても小説の中へと呼び寄せてしまうのである。

母性原理に話を戻すと、それは『真子と鏡』の文体にもあらわれている。『真子と鏡』の反対の例としてジョン・アーヴィングの小説『ガープの世界』を取り上げると、作者は次のような形で父性原理を働かせて物語を書いている。すなわち作者は物語という果物をナイフで切断して、人物に分割する。アーヴィングは人物をさらに切っていき、彼ないし彼女の性格や来歴を書く。これをさらに細かくしていくと、瞬間瞬間の人物の心の動きということになる。このような細切れになった要素は、因果関係という世界の法則によってぶつかり合い、前の要素が次の要素を押して物語全体を駆動していく。人物の心理が行動を決定し、その行動が別の人物の心理を引き起こし、心理の動きによってその人物の次の行動が決定される、という具合で物語は生起していくのである。『ガープの世界』は三人称神視点で書かれている。

『真子と鏡』も前半はそれに近い構造を採用し、心理を細かく書いている。しかしミッドポイント—―谷底の館への進入――を通過すると、人物の行動が前面にあらわれてくる。そして終盤ではもう因果関係は後退していき、ただ「それがそうなるから」というだけで物語が駆動していく。これは近代的な小説というよりは昔話や神話の筆致に近い。物語上のある点と次の点が、何らの因果関係なしに「くっつく」のだ。説明や理屈なしに物語は滑らかに進行していく。

以上で『真子と鏡』の解説を終える。『真子と鏡』は過去の典型的な影と鏡像の文学が持つ課題を、母性原理によって解決をこころみた作品であった。